ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎観光めぐり その2

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記念碑「昇天のいのり」


 

日本二十六聖人殉教地を訪れる

 

慶長元年12月10日の朝、下関の家並みの間を縫う道を、二十六人の異様な囚人の列が海岸にむかって歩いていた。

囚人の姿は、時折目にする引き廻しの罪人よりもはるかに無残なものだった。

後ろ手に縛り上げられた彼らの首から首に縄がかけられ、衣服はぼろのように擦り切れて、破れ目からは垢のこびりついた皮膚が露出している。むろんかれらは裸足で、やぶれた足指の皮膚から流れ出た血が土とまじり合って、足を大きい土塊のようにみせていた。

さらに、かれらの左耳が一様にそぎ落とされていることも、かれらの容貌を一層陰惨なものにしていた。それは切り落とされて間もないらしく血糊が黒くこびりつき、数人の耳からは血膿がしたたり落ちていた。

しかし、人々の好奇心をそそらせたのは、そうした惨めな姿だけではなかった。囚人の群れの中には、異様な容貌をした六名の男がまじっていた。毛髪の色、骨ばった鼻梁、瞳の色から、それは稀にしか見ることのできない異国人にちがいなかった。

さらに人々の眼は、囚人の中にまじった三人の少年の姿にそそがれた。その少年たちは十二、三歳とも思える幼い者たちばかりで、他の日本人の囚人と同じように髷もとけて毛髪を顔にたらし、血と土でよごれた小さな足をひきずって歩いていた。

吉村昭「磔」より

 

1597年1月初旬京都、大阪で捕縛されたイエズス会修道士パウロ三木をはじめとする24名は歩いて長崎に向かった。長崎への旅の途中で一行の世話をした2人も捕縛され囚人の数は26名になった。厳冬期の旅は囚人にとって筆舌に尽くし難い苦難の旅であったろうと思う。

 

漸く唐津に到着して、長崎奉行に引き渡され検分を受けているとき、長崎奉行代理である寺沢八三郎は幼い者を囚人の中に認め、切支丹信者を処刑する命を受けているとはいえ、幼い者を処刑するに忍びず一人の少年に声をかけた。それは、12歳のルドビコ茨城であった。寺沢はルドビコをさしまねいて「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできません」と澄みきった声で答え、毅然として寺沢の申し出を断った。

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アントニオとルドビコ茨城

 

 

1597年2月5日に長崎に到着。この日市内には外出禁止令が出されていたにも関わらず、4000人もの群衆が集まりその最後を見届けた。33歳であったパウロ三木は処刑直前まで群衆に信仰を説いていた。その内容は、すべての迫害者を“ゆるす”という内容だったと言われている。

 

私はこの地を訪れるたびに、これほどまで人間は高い精神性を保つことができるのかということを知って心を揺さぶられる。自分にはできないとも思う。でも、人間としての尊厳を失わないで生きていこうとも思う。先人に生き方を学ぶ。