ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

出島誕生と消失そして出島復元計画

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川原慶賀「長崎出島之図」(長崎大学附属図書館蔵)



(1) 出島誕生

出島(でじま)は、1634年江戸幕府鎖国政策の一環として長崎に築造された扇型の人工島で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東インド会社を通して対オランダ貿易が行われた場所である。

 

鎖国によって閉ざされた日本にとって、出島は唯一西洋に開かれた窓であった。この間、出島からもたらされる書物は、医学、天文暦学などの研究を促進させ、併せて蘭学を通して生じた合理的思考と自由・平等の思想は幕末の日本にも大きな影響を与えた。

 

(2) 出島消失

200年以上、西洋に開かれた日本の唯一の窓として機能していた出島は、1855年安政2年)に日蘭和親条約締結によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可され、3年後の1859年には、出島にあったオランダ商館も閉鎖され、事実上「出島」としての存在意義は失われることとなった。

 

明治以降、出島のある長崎港は埋め立て等の改修・改良工事が度々実施され、港湾の埋め立てが進み出島の姿を大きく変えることになった。そして、1904年(明治37年)には人工島であった出島は完全な陸続きとなり、往時の扇型の姿は完全に失われた。

 

敷地内も時が経つにつれて住宅や医院、商店が建ち並ぶようになり、出島が国の史跡として登録された1922年(大正11年)時点では、道路を除くすべての土地が民有地となっていた。

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出島史跡指定碑

(3) 出島復元計画

明治期にその役割を終え、陸地の中に埋もれ、人々の記憶からも消えかけていた出島、大正11年の史跡指定後も整備が手つかずだった出島に、戦後、オランダ政府が日本政府へ出島の復元を要請したことが発端となり、「出島復元整備事業」が開始されました。

1951年(昭和26年)オランダ政府は日本政府に対して、太平洋戦争における賠償責任を求めない代わりに長崎の地に出島を復元して欲しいと強い要請があったと聞いています。

 

出島は当時の未熟な造船技術、航海技術の中にあってオランダ人の祖先が命をかけて切り開いた極東アジアの橋頭堡であり、それにより200年以上オランダが日本との交易を独占した記念碑的土地である。ましてや、オランダ本国がナポレオン一世の軍隊に一時占領された1811~1815年の5年間、オランダの国旗がひるがえっていたのは、世界中でここ出島だけであったということを考えると、出島はオランダ人にとって心の故郷とも言える場所ではなかったかと思われます。ちなみに、東京港区にあるオランダ大使館の建物は出島を模して扇型になっていることを考えると、オランダ人は日本人以上に出島に対して深い思いを抱いてるような気がします。

 

(4) 出島復元整備事業の実施

長崎市は、1951(昭和26)年から出島の整備計画に着手しはじめます。しかし、出島の用地のほとんどが民有地だったため、まず用地の公有化や施設整備に取り組み、1978(昭和53)年に設置された出島史跡整備審議会での検討を重ねて、公有地化がある程度進んだ1996(平成8)年に本格的な復元整備計画を策定し、完全復元にむけて整備を進めることになりました。100年後の2050年までには周りを全て海に囲まれた、海に浮かぶ出島が再び完成する予定です。

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出島表門橋(2017年11月完成)