ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「宝島」を読む

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第160回直木賞を受賞した真藤順丈さんの「宝島」を読む

舞台は1952年から1972年、アメリカの統治下に置かれた沖縄、コザ暴動も書かれているこの小説を読み終えて、太平洋戦争の沖縄地上戦末期に発信された太田海軍沖縄司令官の訣別電報を思い起こす。

 

大田司令官の電文

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告すべきことですが、県にはすでに通信能力がなく、第32軍司令部も又通信できないため、私は県知事の依頼を受けたものではないのですが現状を見過ごすことができず、知事に代わって緊急にお知らせします。 沖縄本島が敵に攻略され始めて以来、陸海軍は防衛戦に専念せざるを得なくて、県民に関してはほとんど顧みることができませんでした。しかし、私が知る範囲に於いては、県民は青壮年の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身体一つで小防空壕に避難したり砲爆撃下でさまよい、風雨にさらされながら乏しい生活に甘んじています。 しかも若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊への参加すら申し出る者さえいます。 敵が来れば老人子供は殺され、婦女子は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子生き別れになるのを覚悟で、娘を軍隊に預ける親もあります。 看護婦に至っては軍移動に際し、衛生兵が出発したため身寄り無い重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は真面目にして一時の感情に駆られたものとは思えません。 さらに軍に於いて作戦の大転換で、自給自足で夜中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定されたため、輸送手段が無のことから、黙々として雨中を移動しています。 これは、要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫して勤労奉仕、物資節約を強要せられたにもかかわらず、ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きながら、遂にこの戦闘の最後を迎えてしまいました。 沖縄の実情は言葉ではたとえようもありません。一本の木、一本の草さえも焦土と化しています。 食糧も6月一杯しかもたない状況です。 

沖縄県民はこのように戦いました。 沖縄県民に対し、後世、特別のご高配を賜りますようお願い申し上げます。

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」という電文で終わるこの電報を発信した後、太田司令官は自決する。

1945年(昭和20年)6月6日、自分の命もあとわずかという激戦状況下、沖縄県民を思いやった太田司令官の言葉には計り知れない重さを感じる。

 

その沖縄の戦後を舞台にして書かれた「宝島」の中で沖縄はどのように描かれているかというと以下の通りである。

1952年の頃から、アメリカーは沖縄という統治領で暴威をふるっていた。島じゅうに知れわたった嘉手納幼女殺人事件が起こるより前から、米軍でも札つきの海兵隊が駐留するより前から、コザではわざわいの嵐が女子供を襲っていた。すべてのアメリカーがそうだったわけじゃないけれど、たしかに一部の米兵たちは統治領での“人間狩り”を堪能していた。民家のなかにまで土足で踏みこんで(ときに単独で、ときに徒党を組んで)島民たちの平穏を荒らした。すぐ目の前で娘を殺されたお父さんがいた(数年後にわが子を追いかけて首を吊った)。幼い子をおぶったまま米兵にかどわかされたお母さんがいた(あとから母子ともども白骨死体で見つかった)。下校ちゅうにジープにひっぱりこまれ、泣きながら帰ってきた女学生がいた。五人の米兵にトラックで連れ去られ(着いたさきの兵舎後にはもっと大勢の米兵が待ちかまえていて)かわるがわる乱暴された女給がいた。男児も、生後九ヵ月の赤ん坊も襲われた。わが子を守ろうとしてさとうきび畑にひきずりこまれ、強姦されながら銃底で殴り殺された主婦がいた。(だれがどこでと挙げていったらきりがない。同じような目に遭った島民は枚挙にいとまがなかった。)

すさまじいまでの劣情の嵐が、コザに深傷を残していった(それらの大半はいまも世間に知られていない)。島ぐるみの抗議行動に発展した嘉手納幼女殺人事件の以前までは、ほとんどの島民が泣き寝入りするしかないとあきらめていた。(宝島p520)

(注)嘉手納幼女殺人事件

1955年(昭和30年)9月4日、嘉手納村(現在の嘉手納町)の原野において、米兵が起こした6歳の幼稚園児に対する強姦殺人事件

また、同年9月10日には、沖縄・具志川村の農家宅に米兵が押し入って小学2年生の少女を拉致、強姦するという事件も発生。

 

そして、コザ暴動が発生する。

コザ暴動が発生した端緒はアメリカ軍人・軍属の犯罪である。

アメリカ軍人や軍属が犯した犯罪の捜査権・逮捕権・裁判権アメリカ軍に委ねられており、加害者は殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪であっても証拠不十分として無罪や微罪に処されたり、重罪が科されても加害者が米国へ転属して結果や詳細が不明となることも多く、沖縄の住人の被害者が被害を賠償されることはほとんどなかった。

 

交通事故も年間1000件を超え、加害者が基地内に逃げ込めば琉球警察は介入できず、MPも追跡捜査をせずに事件が迷宮入りする場合が多くあった。

多数の沖縄の人々は、戦後25年以上人権を侵害されても泣き寝入りを強いられていた。

 

そのような状況の中、糸満轢殺事件が起こり、コザ暴動が勃発した。

1970年9月18日に糸満町(現・糸満市)で、酒気帯びかつスピード違反のアメリカ兵が歩道に乗り上げて沖縄人女性を轢殺する事故が発生した。この糸満轢殺事件で1970年12月7日に軍法会議は、被害者への賠償は認めたものの、加害者は証拠不十分として無罪判決を下した。沖縄人の多くがこの判決に憤り、12月16日に糸満町で抗議県民大会が開かれた。

コザ暴動の勃発

1970年12月20日コザ市で米兵(酒気帯び)の運転する車が歩行者をはねる事故起こしたことをきっかけとして群衆が集まり当時黄色のナンバープレートによって区別されていたアメリカ軍人・軍属の車75台以上を横転させ火を放つなどの暴動が発生した。

このコザ暴動の報道を受けて、それまでアメリカ軍支配に対して鬱屈した感情を抱いてきた沖縄人の多くが快哉を叫んだ。

 

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還される沖縄返還は実現したものの、現在もなお課題は多く残されている。

米軍専用施設面積の約74%が沖縄県に集中し、沖縄本島の19.3%が基地に占められる。たびたび引き起こされるアメリカ兵による事件が日米地位協定によってうやむやにされることも県民感情を逆撫でする。1995年(平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件の際は大規模な抗議行動が行われた。そしてその抗議の声は2019年(令和元年)の今、辺野古につながっている。

沖縄だけがどうして戦後もこのように蹂躙され続けるのか?なぜだ!どうしてだ!と叫びたくなる。

 

太田司令官が死に際に述べた言葉を託された後世の日本人は沖縄の戦後の歩みと現状をもう一度直視する必要があると考える。少なくとも私は無関心であったと反省する。もっと声をあげるべきだったと思う。

宝島の作品の中にふたりのダニー岸が登場する。

ふたりともダニー岸。善き善人をよそおったこの男も、悪趣味な嗜虐にふける男もどちらもダニー岸。アメリカの利益とみずからの存在意義を同化させて、この沖縄の現実を日本本土から遠ざけることに、対岸の火事のままに保つことに血道を上げるすべての日本人が、”ダニー岸”だったのさ。(p478)という言葉が出てくる。

このダニー岸にすべての日本人がなっていくのが怖い。

いま、沖縄県民の声を無視して辺野古新基地を作ること以外に他に解決策はないのかまずここから直視していきたい。