ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

魚見岳台場跡を散策する

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台場は砲台の跡地で長崎には沢山の台場跡地がある。その中で国史跡に指定されている「魚見岳台場跡」へ行った。

 

長崎台場跡は、江戸時代、中国・オランダに開かれていた長崎港を警備するための施設である。

江戸時代、天領である長崎には1652年(承応2)に7ヵ所の海防施設である台場(古台場)が築かれ、石火矢(大砲)台が備えられた。次いで1808年(文化5)に5ヵ所が築かれ、新台場と総称されていた。しかし、その年、一隻の軍艦「フェートン号」が長崎港に入港し、薪水の補給を要求される事件が起き、さらに4ヵ所の台場(増(まし)台場)が築かれた。

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魚見岳台場は、1810年(文化7)に築かれた増台場の一つで、魚見岳の西斜面に造られ、神崎鼻(こうざきはな)に造営された神崎台場と相対する形で、長崎港の入り口を防御していた。

幕末になると中国 、オランダ以外の外国船の出没も頻繁になり、台場を増築するなどして長崎港警備の強化が図られ、長崎台場跡は記録上全部で23箇所が確認されている。

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魚見岳台場の三ノ増台場から見た対岸の神崎鼻

三ノ増台場は標高75m。この地は長崎港の出入り口にあたり航路が一番狭い場所になる。台場の前の樹木が伸びてきて航路の景色を遮ってきているが、江戸時代当時はここに石火矢(大砲)台が備えられ異変があれば即応する臨戦態勢がしかれていたことを思うと当時の長崎港の重要性を再認識する。

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三ノ増台場から二ノ増台場へ通じる古道

三ノ増台場から100メートルほど古道を上っていくと二ノ増台場につく。この古道も当時はしっかり整備されていたのだと思うが、今は古道を遮るように樹木が茂っているところもあり置き去りにされた時を感じる。

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三ノ増台場の石垣

古道の石ころや落ち葉を踏みしめながら上って行くと、突然、山中にお城の高い石垣が現れる。ここがお台場の跡地と知らなければ、驚くほど立派な石垣である。山中に台場を築くということは、いかに大変な工事であったかと古人の苦労が偲ばれる。

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一ノ増台場にある御石蔵

二ノ増台場から30メートルほど上ったところに一ノ増台場が有り、その北側端には弾丸火薬貯蔵施設である御石蔵と呼ばれていた石作り瓦屋根の建物が建っていた。 

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三ノ増台場から港外を見る

ここ魚見岳台場跡を過ぎると東シナ海へ通じる。東シナ海南シナ海へインド洋へと通じて行く。魚見岳台場跡に立って海を眺めるとき、長崎は海外から見て日本の表玄関にふさわしい位置にあったのだとあらためて納得する。
観光地としての整備がまだ十分ではないが、ここ魚見岳台場跡は長崎の歴史の生き証人に値する場所だと思う。今度友達が来崎したらここにも案内しようと思う。