ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

武蔵がいた頃の長崎

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吉村昭著「戦艦武蔵」より


長崎では、武蔵とは戦艦「武蔵」のことであり、宮本武蔵ではない。その戦艦「武蔵」は三菱長崎造船所で建造された。ここで「武蔵」が建造されていたとき、長崎市民は「武蔵」を見たり、「武蔵」のことを話したりしたら厳罰を与えられた。

 

ここ一週間、私は毎日気ままに、長崎港の周りを歩き回っている。高台から港を見たり、写真を撮ったりしている。さらに岸壁まで降りてきて対岸の造船所の様子を見たり、写真に撮ったりしている。全く自由に長崎港やその周りを見たり撮影したりしながら楽しんでいる。もちろん、誰に咎められることもない。

 

他人の所有する敷地に無断で侵入したり、立入禁止区域に無断で侵入したりすることはもちろんいけないが、そういうことをしない限り、公共の場で見ることを禁止されることは何もない。これは当たり前のことで不思議でも何でもないことだが、しかし、ここ長崎ではそれが決して許されない時代があった。

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対岸から見た三菱長崎造船所


1937年(昭和12年)戦艦「武蔵」が三菱造船所で建造される計画が決定した年から市民たちに気づかれなかったが、長崎市内にひそかな動きが広がっていた。高台を巡察する憲兵の数が急増したのをはじめ、いつのまにか特高係の刑事たちが数多く市中に入り込んでいた。刑事たちは東京、大阪からの者もまじえて九州各県から動員された者であった。かれらが、初めて表面的な動きを見せたのは1937年12月12日の夜半であった。彼らはピストルで武装し中華街に向かい一斉に中国人の家に踏み込み、成人に達した男たちを全員警察に連行した。中国人たちはスパイ容疑で執拗な訊問を繰り返し受けた。漸く釈放されたのは二ヶ月も経ってからで、この間の拷問が原因で老人の一人が死亡した。

この一斉検挙は、九州一帯も同時に行われ、その折の調べで好ましくない人物と目された者は強制送還された。

 

この事件は、たちまち長崎市内に伝わった。この町の性格で一般市民たちは外国人ととけあい、中国人とも親しくつきあっている者が多くあり、中国友人の検挙を知ると、その釈放を嘆願しに警察に行く者すらあったが、警察では、逆にそれらの市民を要注意人物として監視するようになった。

 

武蔵の起工式は昭和13年3月に行われた。長崎は港を中心にして周りの高台や山の上からどこからでも造船所が見える地形であるため、憲兵隊の活動は低地から高台から山中にまで及んだ。山歩きをしている市民は容赦なく憲兵隊に連行されて厳しい詰問を受けた。造船所には高性能の双眼望遠鏡が数台設置され常に高台の方向を監視しており、高台から造船所の方向を見ている者や写真を撮っている者はすぐに電話で最寄りの詰所に連絡され憲兵が急行してその人物を捕え連行した。また長崎港内を出入りする船も望遠鏡で監視された。長崎港に出入りする交通船には兵隊が2名乗船して造船所に面した側の窓をすべて閉じさせ、乗客たちには造船所の方に顔を向けないように監視した。初めは憲兵隊にに連行される者が続出した。彼らはおどされて釈放されたが、市民たちの間には、急に重苦しい空気が広がった。憲兵、警察のほかさらに1200名の佐世保海兵団からの警戒隊の応援を得て監視は徹底された。高台、海岸沿いの道には常に彼らの目が光り、造船所の方向に目を向けた者は容赦なく連行された。

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吉村昭著「戦艦武蔵ノート」より

また当時、長崎にはアメリカ領事館とイギリス領事館が置かれていた。その領事館から造船所が丸見えだったことから領事館の前に長さ100メートル、幅20メートル、二階建の倉庫を作り目隠しとした。

 

今では考えられないことが、この長崎で起こったことを決して忘れない。そして、こういうことが二度と起こらないように政治をしっかり監視していこうと強く思う。