ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

荻村伊智朗さんについて

 

卓球の伊藤美誠選手と阿川佐和子さんとの対談番組を見た。先日北京であった大会で 世界ランキング1位の中国選手を破り、今、卓球王国・中国からも大魔王と呼ばれ恐れられているそうだ。

 

伊藤美誠さんの卓球の話を聞きながら、戦後まだ敗戦の影を引きずっていた頃、卓球の世界選手権のタイトルを12個も獲得し、戦後を代表するスポーツヒーローとなり、現役を退いてからも指導者や国際卓球連盟会長として世界各国を飛び回り、「ミスター卓球」あるいは「ピンポン外交官」と呼ばれた荻村伊智朗さんのことを思い出した。

 

荻村伊智朗さんは昭和23年(1948年)都立西高校の卓球部に入部し卓球を始めた。元野球少年であった彼は卓球の才能がないと言われても、才能がなければ努力するしかないと持ち前の努力に努力を重ね昭和27年(1952年)日本代表の座を獲得していった。そして国際大会において昭和29年から昭和33年まで続く団体優勝五連覇に貢献するとともに国際大会タイトルを12個獲得する偉業を成し遂げた人である。日本の卓球黄金時代を牽引した立役者であった。

 

彼が初めて、国際大会の派遣代表選手に選ばれた昭和29年(1954年)という時代は、まだ日本は貧しく代表選手の派遣費用といえども国は負担できず、代表選手に選ばれても派遣費用80万円を自己負担しなければならない時代であった。サラリーマンの平均年収が10万円に満たない時代であり、荻村選手の家庭でもとても準備できる金額ではなく、本人は代表選手あきらめていたが、周りの理解者や卓球仲間たちが後援会を立ち上げ、駅頭等で募金活動をはじめるなどしてその輪を広げ、3ヶ月後目標の募金額を集め、彼は参加することができた。

 

そして、彼は初めて代表選手として参加した、そのロンドン国際大会で 優勝した。

敗戦の記憶がまだ国民の間に残り、復興に追われていたときの荻村選手の快挙は国民に自信と誇りを取り戻す出来事であった。後援会主催の凱旋パレードでは沿道が多くの人で埋まった。多くの人が日の丸の小旗を振りながら目頭をおさえた。水泳の古橋廣之進、日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士に続く国民的ヒーローになった。

当時の新聞には「選手生活がそう長いとは思われない荻村が世界チャンピオンの地位を確保できたのは、彼のたゆまざる努力と研究のたまものにほかならない。」という卓球協会の理事長のコメントが載った。

 

昭和29年(1954年)のロンドン大会では、日本代表選手は反日感情の矢面の中で、世界チャンピオンの座を争わなければならなかった。

日の丸をつけたジャケットでレストランに入ると、すべてのお客が同席は嫌だと言わんばかりに店から出て行く、理髪店に入ると「お前らジャップの髪の毛を切るイスはない!」とすごい剣幕で追い出された。当時在英の日本人の多くは中国人のふりをして生活している現実を見聞きした。試合会場では、入場すると激しいブーイングが鳴り響き、試合中は必ず日本の対戦チームに熱狂的な声援を送った。日本選手がミスをすると、観客全員が手を叩き、床を踏みならして喜んだ。審判の判定もひどかった。日本選手がポイントを決め「ヨシッ」と声をあげると失点にされた。サーブ権が移った相手にラケットを使ってボールを渡すと、サーブミスと判定された。

 

昭和30年(1955年)のオランダ大会でも反日感情は変わらなかった。荻村は同世代のオランダ人から「日本に原爆が落とされて本当によかったよ。」と言われた。第二次世界大戦インドネシアのオランダ領を蹂躙されたオランダはイギリス同様、反日感情が強かった。終戦から10年経っても日本大使館への投石が絶えず、日の丸の国旗に生卵やケッチャプを投げつけられる事件が相次いでいた。

 

そのオランダ大会でも代表選手は健闘し、優勝した。

その報告のため、首相官邸へ表敬訪問した際のやりとりを荻村は残している。

選手団長が成績を報告しようとすると、首相の鳩山一郎は「君らが素晴らしい成績を残したことはよくわかっている。でも、それは大したことではない。」と、報告を遮って「例えば、国旗を汚されるというのは、外交上、大変なことなんだよ。それを大使館はこれまでなんとか穏便におさえてきた。それが、卓球世界選手権の5日目、日本とハンガリー団体戦の準決勝をやっているときに、君たちの間に人道的なプレーがあったと報じられた。その途端に新聞やテレビの論調ががらりと変わった。信じられないことだが、日本大使館に対する投石もぴたりとやんだんだよ。」「卵やケッチャプで汚され、毎日取り替えなければならなかった大使館の日の丸を取り替える必要がなくなったことの方こそ、君たちの大きな功績だ。自分は総理大臣としてそれが一番嬉しかった。みなさんに、そのことに対するお礼を言いたかったんだ。」

鳩山首相のことばを聞き、卓球を続けることに、またもう一つの生きがいを覚えた。と彼は記している。

 

日本とハンガリーの試合中の人道的プレーとは、観客のほぼ全てが対戦相手を応援する完全アウエー状態で鎬を削る試合を展開中、対戦相手のハンガリー選手が日本ベンチのフェンス際でプレーした際、バランスを崩して日本ベンチに頭から倒れこんだとき、荻村選手など数名がとっさに身を投げ出して、日本選手がハンガリー選手の下敷きになった。ハンガリー選手が別の日本人選手に抱きかかえられて起きあがった瞬間、日本チームは初めて観客席から大きな拍手を受けた。

 

昭和36年(1961年)北京で国際大会が開催され、日本は連続六連覇という念願の偉業を中国に阻止された。帰国の途につく前夜、周恩来首相は日本選手団のために歓送会を開いてくれた。

そして、荻村に頭を下げて言った。「我が国の卓球がさらに普及発展するために、荻村さん、あなたの力を貸してもらえないだろうか」

荻村は周恩来首相に直接疑問をぶつけた。「なぜ、今さら、私が招かれてお手伝いしなければならないのか、なぜ、そこまで卓球に力を入れられるのか、その理由を教えていただけませんか」

「荻村さん、中国の婦人の間に纏足という習慣があったのをご存知ですか?この纏足の悪習慣を断ち切るためには、女性のスポーツを盛んにすることが必要だと考えています。春夏秋冬、老若男女、東西南北、広い中国のどこでもできるスポーツが私たちには必要なんです。中国はまだ貧しい国です。でも卓球台なら自給自足できる。だから、卓球を選んだのです。それに恥ずかしい話ですが、アヘン戦争以来、我々には屈辱的な経験が多かった。そんな劣等感を払拭するには、スポーツが一つのの方法だと思いました。日本人が敗戦後のどん底から自信を取り戻したきっかけは、荻村さん、あなたたちが活躍したスポーツだったでしょう。同じような体格の日本人が成功した種目で徹底的に鍛えれば、中国人も成功できるのではないかと考えたのです。だから、荻村さん、あなたの経験と力で卓球の素晴らしさをこの国の人民に伝えてほしいのです。」周恩来首相の卓球というスポーツを国家の存亡と結びつける発想に荻村は心を揺さぶられ、この申し出を承諾した。

 

荻村が海外で指導者として活躍するのを快く思わない者もいた「日本の卓球界が積み上げてきた技術をわざわざ他の国に教えるのはおかしい。自分の名前を売り込みたいだけじゃないか。」でも荻村は気にしない。「教えて強くなったら。それ以上にまた強くなればいい。」と言って笑った。

 

その後も指導者として海外で活躍するとともに、日本卓球協会の理事を務め卓球ニッポンの復活を目指した。そして、昭和62年(1987年)には国際卓球連盟会長(ITTF会長)に選任された。欧米で生まれたスポーツの国際競技連盟会長になったのは日本はもちろんアジアでも史上初めての快挙だった。

 

荻村はITTF会長に就任したことについて「外国に行けば戦争犯罪者みたいな目で見られてきた僕らの世代にとって、日本人が世界のまとめ役をやらせてもらえるってことはすごく光栄なことなんです。二十一世紀になればきっと、僕に続く日本人が次々と現れるはずです。」

と後輩の活躍に期待するコメントを残して逝った。

 

(参考文献「ピンポンさん 荻村伊智朗伝」城島充著)