ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

サイクリング&さるく その2

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青ピンを出発して、青ピンに戻るコース。距離16.33km、上昇総高度57m、所要時間2:34:44、天気晴れ時々曇り、温度20度、湿度78%

朝から良い天気である。今日は出島までサイクリングしよう。そして出島近辺でさるくをしよう。(注、さるくとは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁)

 

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出島表門橋公園に到着。ここの公園には、オランダの絵本作家ディック・ブルーナさんの絵本に主人公として出てくるミッフィーが9つの場所に隠れているという。探すが2つしか見つけることができない。次回の楽しみに残す。

 

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出島橋、長さ36.7m、幅5.5m

出島の横に架かる出島橋は明治23年(1890年)にアメリカから輸入された鉄骨を使って造られたもので、我が国の現役の道路橋では最も古い鉄製の橋である

 

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江戸町商店街アーチデザイン


出島の隣り町であった江戸町は217年間、和蘭商館と深い友好を築いた。江戸町の紋章は、出島のオランダ商館長が友好の証としてオランダ語綴りの”Jedomatsl”のJとDとMを組み合わせた独特のデザインの紋章を考案し、贈ったものである。江戸町の町民はこれを誇りとし、貴重な遺産として受け継いでいる。

 

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ポルトガル宣教師ルイス・フロイスを称え、最後の地に近い通りをフロイス通りと呼ぶ

ルイス・フロイス(1532年〜1598年)はポルトガルの宣教師で、(1563年)31歳で長崎の横瀬浦に上陸し布教活動を行って以来、フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、著書「日本史」にその貴重な記録を残した。65歳長崎のコレジオにて歿す。

 

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この石碑、明治40年(1907年)与謝野鉄幹北原白秋、木下杢太郞、平野万里、吉井勇の五人が平戸から天草訪れる途中、長崎に立ち寄った記念の碑である。この五人は帰京後「五足の靴」という、みずみずしい感性で九州での多くの人や風景との出会いをいきいきと描写した紀行文を発表した。長崎を新しい文学で中央に紹介したのはこれが最初であった。

「長崎の円き港の青き水  ナポリを見たる眼にも美し 」

与謝野鉄幹その折の作

 

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1923年頃 上海航路と出島岸壁

大正12年(1923年)長崎・上海連絡船定期航路が開かれた。就航したのは日本郵船の「長崎丸」と「上海丸」であった。長崎・東京が汽車で36時間かかっていた頃に、長崎・上海航路は26時間で連絡した。市民にとって「下駄を履いて上海へ」と言われるほど市民にとって上海は身近な存在であった。しかし、昭和17年(1942年)戦争のため上海航路は幕を閉じた。

 

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今は、長崎・上海航路はないが、毎週何隻も豪華な国際観光船が上海からやってくる。たくさんの中国人観光客が長崎に来る。日中交流は先の戦争で一旦途切れたが、今後この交流が二度と途切れることがないように祈る。

 

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今日の一枚は「ノウゼンカズラ」である。ノウゼンカズラ科のツル性木本で夏から秋にかけ 橙色や赤色の大きな花をつける。壁や樹木などに付着してつるを伸ばす。

中国原産で平安時代に日本に渡来。夏の季語  

「家毎に凌霄(りょうしょう)咲ける温泉(いでゆ)かな」正岡子規

凌霄(りょうしょう)とはノウゼンカズラの漢名(別名)