ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎学公開講座受講

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川原慶賀筆長崎港図屏風



「川原慶賀筆長崎港図屏風 その謎の解明」というテーマの長崎学講座を受講した

講師は長崎史談会会長の原田博二氏である。

 

今日のテーマに挙げられた屏風は、オランダ人の個人宅に100年ほど秘蔵されていたもので、今回、オランダのライデン国立民族学博物館の所蔵となった。屏風は8曲1隻(縦171cm、横470cm)の着色屏風である

 

今回、ライデン博物館がこの屏風を解体して調査を行う際、原田氏等が協力を求められ、調査に立ち会い、屏風の謎についてお話をうかがった。

 

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本題に入る前に、ライデン国立博物館があるライデン市について説明があった。

ライデン市は人口10万程度のオランダの小都市であるが、ここは日本研究のメッカになっているそうだ。市内の建物の壁に大きく「荒海や佐渡に横たう天の川」という筆書きをみたり、「東風吹かば思い起こせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」という日本語の石碑を見たりする。なぜ、ライデン市が日本との深い関わりができたかというとシーボルトがここに住まいを求めたことから始まる。ライデン市は小都市だが、1575年に誕生した歴史あるライデン大学がある学園都市で、日本から帰国したシーボルトは、ライデン大学で日本で集めた資料の調査研究をすることを決めて、ライデン市に住まいを求めたことから日本との関係が始まることとなった。

 

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オランダ船「マライ・エン・ヒレホンダ号」

謎 1  本図が描かれた年代はいつか?

本図に描かれた出島の建物を細かく見ていくと、1809年 〜1833年まで存在したカピタン部屋の外階段がなく1833年以降を描いたものと思われる。出島に1835年まであった家畜小屋も描かれていないので少なくとも1836年以降を描いたと思われる。また、中央に描かれているオランダ船のメインマストにこの船の船名「マライ・エン・ヒレホンダ」と書かれている。ヒレホンダは1836年に長崎港に、それも一度だけ入港している記録があることから、この図は1836年頃の長崎港を描いたものということがわかった。

 

 

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屏風の下地に貼られた和紙

謎 2  長崎港図はどこで屏風に仕立てたか?

どこで屏風に仕立てたかの疑問を解決するためには、屏風の下地に貼られた紙を見るしかなく、その下地の紙に日本の文字が書かれていれば、日本で屏風に仕立てられたことになり、さらにその内容が長崎関係であれば長崎で屏風に仕立てられたことになる。

本紙を剥がし、その下の部分の和紙を剥がしていくと、いろんなことが書きつけてある和紙が出てきた。和紙には五島屋敷と書かれた文書(断簡)があった。さらに断簡の和紙には「大黒町」、「今紺屋町」、「酒屋町」や「福済寺」、「光源寺」、「水神社」などの長崎の地名や寺社名が書かれていた。全ての解体作業を終えたが、長崎のことを書かれた文書ばかりで、長崎以外のものは一枚もなかった。このことから、この屏風は長崎で仕立てられたものと断言できるのである。

 

 

謎 3 どのようにして いつ頃、長崎港図屏風はオランダにもたらされたか?

本図は、1836年頃の長崎港が実に詳細に描かれているが、鎖国時代、このように長崎港を詳細に描いた絵画の国外持ち出しは厳しく禁止されていた。小さな絵画や未表装のものであれば荷物の中に忍ばせて持ち出しすることもできたかもしれないが、屏風仕立てのしかも8曲1隻の大作を密かに持ち出すことは当時の厳重な取り締まりの中では不可能である。文政11年(1828年)のシーボルト事件が起こる以前であれば持ち出すことができたかもしれないが、事件以降は厳しく取り締まりが行われており、まず不可能である。

そのため、1836年頃が描かれた長崎港図屏風の大作は、国外持ち出しが緩和された1856年の日蘭和親条約締結後にオランダにもたらされたものと考えられる。

(注 シーボルト事件とはシーボルトが国外持ち出し禁制品を持ち出そうとした事件)

 

今回の長崎学講座を受講していろんな疑問が解決できて大変有意義であった。そして、長崎学の奥の深さを実感した。次の機会もまた参加したいと思った。