ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎喧嘩騒動

f:id:battenjiiji:20190620092203p:plain

「長崎喧嘩騒動」関係先

昨日、深堀散策で菩提寺を訪れたとき、その菩提寺の境内に21個の墓碑が並んで祀られているのを見た。その墓碑の周りはきれいに清掃されていて、今も手厚く祀られている様子がわかる。この墓碑に興味を覚え近づいて見ると、この墓碑こそ「長崎喧嘩騒動」で切腹、遠島の処分を受けた深堀藩士の墓碑であった。墓碑の前に立ち手を合わせてお参りした後、「長崎喧嘩騒動」について考えた。

 

f:id:battenjiiji:20190620092707j:plain

「長崎喧嘩騒動」発端の地「大音寺坂」

元禄13年(1701年)12月19日、佐賀鍋島藩深堀領の深堀三右衛門(70歳)、志波原武右衛門(60歳)の両名は所用を終えて五島町の深堀屋敷へ戻る途中、大音寺坂を通っているとき、長崎の筆頭町年寄である、高木彦右衛門の初孫宮参りの祝い酒に酔った、彦右衛門の使用人である又助らと、この坂で出会った。この日は大雪で足場が悪く、三右衛門の持つ杖があやまって泥を跳ね上げ、そのはね泥が又助にかかった。

 

深堀藩士両名は非礼を詫びたが、又助達はこれを許さず口論となった。この時の諍いはいったん収まったが、夕暮に、五島町の深堀屋敷に高木の家来10数人が押しかけ、屋敷内に乱入し、三右衛門と武右衛門に暴行を加え、その上両名の大小の刀を奪い去った。

 

三右衛門と武右衛門は武士としてひどい恥辱を受けた以上、斬死の外なく差替の大小を取り寄せに在所に仲間を走らせた。深堀ではこの難を聞き、三右衛門の息子・深堀嘉右衛門(17歳)以下深堀藩士多数が死に支度して長崎に向かった。

 

西浜町の高木屋敷に到着した深堀藩士10人と三右衛門・武右衛門の2人を加えた12名は、翌二十日未明、高木屋敷へ討ち入った。高木家側も刀を持ち出し応戦したが、高木彦右衛門および剣客、家来など合計9名が討ちとられて死亡した。深堀藩士・城島次郎右衛門以下9名も後から駆けつけ助勢した。深堀衆は本懐を遂げた後、彦右衛門の首を槍先に突き刺して、深堀屋敷に引き上げた。また、深堀三右衛門は同屋敷で、志波原武右衛門は大橋の上でそれぞれ切腹して果てた。

 

この騒動について、元禄十四年三月二十一日、幕府裁断が行われた。

深堀側は最初に討ち入った10名は切腹、追加の9名は五島列島島流し。主である鍋島官左衛門は当時長崎に不在であったとして御構い(処罰)なし。

高木側は、この騒ぎの原因を作った深堀屋敷に押し入った使用人9人は全員斬首。また高木彦右衛門の息子・高木彦八郎は長崎五里四方からの追放、京、江戸、大阪居住禁止と裁断された。

 

この事件は江戸をはじめ全国でも大きな話題となり、当時、大変有名になったということである。翌年起こる赤穂浪士の討ち入りは深堀藩士の戦法を参考にしたとも言われている。

 

f:id:battenjiiji:20190620093750j:plain

深堀義士の墓碑

この「長崎喧嘩騒動」という討入り事件を今静かに考えると、武士として生きることがいかに難しいことかと感じる。「恥をかくことは死を意味する」「恥を雪ぐためには命をかける」「「武士として生きることは、辱しめを受けない生き方をすることであり、一旦恥辱を受けたら、その恥を雪ぐために命をかけることである、それが出来なければ武士ではない」現代人の、特に私は恥のかきっぱなしの人生を歩んできた身だからこのような武士の生き方はとてもできない。しかし、できないから憧れる部分も多くある。その高潔な生き方にできるだけ近づきたいとも思う。