ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

じゃがたらお春

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ジャガタラお春の碑

長崎の四福寺の一つである聖福寺じゃがたらお春の石碑がある。その石碑の裏面には、歌人吉井勇作の「長崎の鶯はなく今もなおじゃがたら文のお春あわれと」刻まれている。

私は、じゃがたら文で有名な「じゃがたらお春の碑」がどうして聖福寺の境内にあるのか疑問に思っていた。しかし、今日は雨が降り続く一日で、外出を控えて本を読んでいたら、じゃがたらお春にいきあたり、その謎を解くことができた。雨の日もまた楽しという一日になった。

 

お春は、イタリア国籍を持つ父と日本女性の間に生まれた混血児である。お春は長崎に生まれている。寛永16年(1639)14歳の秋、長崎から鎖国追放令によってジャワ島のバタビヤに流され、当地で七十三歳で没したという。オランダのバーグ国立図書館の記録に基けば、お春は寛永改元された頃生まれたことになる。そして、お春は聖福寺があるここ筑後町で生まれ、この町に住んでいたことから聖福寺に石碑が建立されたということであった。

 

天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルによって始めて日本にキリスト教がもたらされた。そして天文19年(1550)にはポルトガル船が平戸に来て貿易を開始した。当初、平戸の領主松浦氏は交易による収入増などからポルトガルの入港に好意的であった。しかし、永禄4年(1561)ポルトガル船の乗員と平戸町民との間に争いがあり、乗員が殺されるという事件が起こったことから、この事件を契機に永禄5年(1562)ポルトガルは平戸から大村領の横瀬浦へと移った。しかし、横瀬浦でも争いが起こり、永禄8年(1865)横瀬浦に代わり長崎の福田浦が開港した。しかし、福田浦は外海に直接開かれていて港の条件が悪く、その奥にある長崎が最適であるとして長崎港が開港された。

 

元亀2年(1571)長崎港に初めてポルトガル船が入港した。長崎の領主である大村純忠キリスト教にきわめて好意的で、天正8年(1580)長崎とその近郊をイエズス会に寄進した。天正12年(1584)には全家臣に対しキリスト教に改信を図り、これに従わない者は、領地外に去らせた。寺院、神社などはことごとく打ち壊され、長崎は日本のキリスト教の中心地となった。長崎に多くの教会や洋館が建ち並び、長崎は東洋のローマであるとヴァチカンに宣教師の手紙がもたらされたのはこの頃である。

長崎は1500年後半からキリシタン大名大村純忠の支配する地であった。領民の全てと言っていいほどの人がキリスト教であった。このような中でキリシタンになっていくことに住民はなんの抵抗もなく当然の考え方と思っていた。お春一家もキリシタンである。

 

長崎でキリスト教の布教が広がっていく中、豊臣秀吉によりキリスト教への弾圧が始まっていった。慶長元年(1597)西坂でキリスト教信者26人の処刑が行われた。慶長17年(1612)キリシタン規制始まる。寛永3年(1626)キリスト教弾圧のため「踏み絵」が実施された。寛永12年(1635)日本人の海外渡航と帰国禁止。寛永13年(1636)出島完成。ポルトガル人市中雑居禁止。長崎に住むスペイン系及びポルトガル系の男女287名が長崎からマカオに追放された。寛永16年(1639)ポルトガル渡航禁止。長崎に住む異邦人及び混血児がジャカルタに追放流刑とされた。

 

お春はイタリア人の父と日本人の母マリアとの間に生まれた混血児である。まんという姉が一人いる。父親はお春が5歳の頃オランダ商館に勤めていた時に亡くなった。夫の死によってマリアは生活に困窮し、二人の子を養うため母親は働きに出た。母親マリアの父は小柳理右衛門といい、寺子屋を開いていた。理右衛門はマリアの生活を支えるためお春を養女として引き取った。

 

お春たちが追放流刑になるということを聞かされた理右衛門は、お春を養女ににした時には、まさかわが子や孫二人が名も知らぬ遠い異国の地に流刑になるとは思ってもいなかったことである。

 

追放流刑が決まってからはお春親子も養父の理右衛門もそれぞれが泣き暮らす日々が続いていた。ある日お春は思い切った。もう私がいくら狂って泣いてもお上が決めたことである。なんともなることではない。私がしっかりして母や姉に力添えしなければ、もう悲しむまい。

 

白髪が多くなった理右衛門も、「私も元気を出さねばのう。歳に負けてはおれん」孫娘らを達者な姿で見送ってやるのが祖父の務めだと反省もした。そしてお春に言った。

「お春、お前にはまだわからんだろうが、広い地球というものがあって、その土地には必ず人が住んでいる。人間である以上言葉もあるし、心もあるもんじゃ。自分が素直な心でいれば、相手にも通じるはずじゃ。今までお前に教えた儒学というものも、そこから始まっている。

なあに、おじいさんのことは何も心配いらない。近くには親戚もいるし。それより、バタビアは大変暑い地らしい。薄い着物の準備もしている。薬などもいろいろ揃えるが、決して生水を口にしてはいけない。そのうち訪ねていくよ。まだ、そのくらいの元気さもあるからね。流刑、流刑といっているが、罪で遠い処へ流されるのではない。イエス様の教えを守る国へ行ってくれということなのだ。おじさんも寂しくなるが、長崎からお前たちの幸せを毎日祈っている。亡くなった父もきっと、おまえたちがいく先で待っているはずだよ。それにお前一人で行くのではない。お母さんも、お姉さんも一緒だ。今は、手紙も許されていないが、時が経てばきっと便りもできるようになる。それまで、おじいさんも辛いが、我慢して待っているよ。必ず、会う日がくるだろうからね」

 

追放される前々年、島原・天草の乱が勃発した。キリシタンを恐れた幕府が打ち出した手段は異国人並びに混血児らの国外追放であった。

寛永16年(1639)、お春親子はバタビアへ去った。そして、望郷の念虚しく二度と日本の地を踏むことはなかった。

 

参考文献 著者小島笙 「ジャガタラお春」