昨日、「ジャガタラお春」さんをブログに書いた。長崎で、ごく普通に幸せに育っていたのに、キリシタン信者であること、混血児であることから、突如、時代の変遷の渦に巻き込まれてしまった一人の女性の人生の歩みを垣間見た。ジャガタラお春さんのことを書きながら自分の力ではどうしようもできない時代の渦に巻き込まれる悲しみ、苦しみを感じた。ジャガタラお春さんの本を読んでいたら、天正遣欧少年使節のことが出ていた。この少年使節もまさに時代に翻弄された人たちであった。
長崎県大村市に天正遣欧少年使節の像が建てられている。その説明文にこう書かれている。
「天正遣欧少年使節は、日本で初めてキリスト教に改宗した大村の領主「大村純忠」らが1582年にローマ教皇の元へ派遣した四人の少年である。彼らは日本から初めてヨーロッパを公式に訪問した使節です。この派遣計画は、当時日本でキリスト教を布教する責任だったビャリニャーノ神父の発案で、少年たちはキリシタン大名「大村純忠」「大友宗麟」「有馬晴信」の代役という形で派遣された。
(注 キリシタン大名とは仏教からキリスト教に改宗した大名のことである。)
この使節の目的は大きく二つあり、一つ目は、日本の布教活動の成果を示すためにセミナリヨ(キリスト教の学校)の優秀な生徒たちをローマ教皇にあわせること。二つ目は、少年たちを優秀な宣教師として育てるために、ヨーロッパのキリスト教社会の素晴らしさを直接見せることだった。
日本出発から2年5カ月かけてようやくヨーロッパに到着した。ポルトガル国王・スペイン国王に面会し、少年たちが行く先々で日本ブームが起こったといわれるほど熱烈な歓迎を受けた。ローマ教皇(グレゴリウス13世)に面会するときは、「帝王の間」に通され、国王級の扱いを受け、ローマの市民権まで与えられた。
1590年(出発から8年5ヶ月)、四少年は遂に帰国を果たしたが、四人を派遣したキリシタン大名のうち大村純忠と大友宗麟はすでに亡くなっっており、日本はすでに
キリスト教が禁止されたあとであった。四人はそれぞれ追放されたり、キリスト教信仰をやめたり、また処刑されるなど帰国後はさまざまな苦難を強いられた。せっかく学んだキリスト教を満足に布教できないまま生涯を終えた。
しかし、少年たちは大きな功績をのこした。活版印刷機、西洋楽器などヨーロッパの進んだ技術や文明を持ち帰り、日本が海外と断交した(鎖国)後も日本が広く、ヨーロッパに知られ続けた大きなきっかけを作った。
日向国(宮崎県)都於郡(とのこおり)出身。大友宗麟の遠縁にあたる。4人の少年の中で最年長。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となる。布教活動の長旅で体を壊し、1612年、43歳で長崎にて病死。
有馬領千々石出身。釜蓋(かまぶた)城主千々石直員(なおかず)の子。有馬晴信のいとこ、大村純忠の甥にあたる。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年頃、イエズス会を脱退。清左衛門と名乗り、大村喜前に仕える。1633年死去。
大村藩波佐見出身。原中務(はらなかつかさ)大輔純一の子。四人の少年の中で最年少。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1608年長崎で司祭となる。布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。1629年マカオにて病死。
大村領中浦出身(現在の西海市)。中浦領主中浦甚五郎の子。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻る。1608年、司祭となる。徳川幕府の禁教令後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、64歳で長崎西坂にて殉教する。
時代の渦に巻き込まれなかったら、少年時代に貴重な体験をした少年たちには、それぞれ大きな活躍の舞台が与えられていただろうと思う。初志を貫けなかった少年たちの心を思うと言葉もない。ただただ、頭を下げるだけである。