今日は、南島原市に用事があって出かけた。南島原市は世界文化遺産の町である。用事をすませた後は、西洋文化を織りなす南島原市の歴史へタイムトリップした。
南島原市は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」の構成資産である「原城跡」と「日野江城跡」が存在する町である。
今日は「有馬キリシタン遺産記念館」、「原城跡」、「日野江城跡」を訪問することにした。
「有馬キリシタン遺産記念館」の展示室1では、16世紀から17世紀の日野江城を中心としたキリスト教の繁栄時代を紹介している。展示室2では、1637年に勃発した有馬や天草の領民による島原・天草一揆について紹介している。展示室に入る前に、長崎におけるキリシタンの繁栄、弾圧、潜伏、復活の流れを、ビデオで学習する。
この記念館で予備知識を勉強した跡、原城跡へ移動する。
1637年10月、飢饉の中重税に苦しみ、苛政に堪えかねた領民の不満は一揆となり、島原城を攻めるが落城まで至らず、その後、島原、天草地方の一揆勢は合流し、廃城になっていた原城に籠城する。その数は2万数千人であり、少年の天草四郎時貞を総大将とした。
天草四郎時貞、1621年肥後において誕生。父は益田甚兵衛好次で、小西行長の家臣。幼少の頃肥後熊本の細川忠利の家中、須佐美半之丞の小姓をつとめたともいわれる。その後学問をするため長崎に行き、ここでキリシタンに入信し洗礼を受ける。洗礼名ジェロニモ。寛永14(1637)年島原の乱の総大将に推され、原城に籠城して戦ったが、寛永15(1638)年2月28日原城にて戦死、長崎で梟首された。
島原・天草一揆は4か月に及ぶ攻防繰り広げ、最後は兵糧攻めの末に幕府軍の総攻撃を受け一揆は終結した。この戦いで一揆に加わった2万数千人のほとんどが命を落としたと言われている。この一揆の後、禁教はますます厳しくなり、国内のキリシタンは人目につかない集落などへ移り住むことを余儀なくされ、長期の潜伏の中で、信仰を守る隠れキリシタンという独特な宗教的伝統が生まれていくこととなった。原城跡は、こうした伝統が生まれるきっかけとなった場所と位置づけられている。
一揆の後、島原半島南部では領民のほとんどが死に絶えたと言われている。いま、戦いの跡に立って静かな海を見る。
「地の果てに地の塩ありて蛍草」
この句の「地の塩」という詩句が心についた。「マタイによる福音書」から出たこの言葉は、少数者が、社会の腐敗を防ぐために、大変な役割を果たすたとえに使われる。島原・天草一揆の殉教者たちは、確かに「地の塩」であった。