ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

島巡りの旅の途中で

 

 

先週の日曜日は久しぶりの休日で、島巡りに出かけた。その行き帰りのドライブ中に、興味を惹かれた場所があった。そして、いくつかは思い出の場所になった。

 

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長崎県で一番長い直線道路(福江島二本楠地区)

朝から貝津港目指してドライブしていたとき、長い直線道路に出た。いつまで行っても直線が続き、ここが島内と思われないほど長い直線道路である。福江島には長崎県で一番長い直線道路があると言われていたのを思い出した。青い空の下、まっすぐ続く道路をドライブしていると、二十代の頃、南カリフォルニアの大地を「カリフォルニアの青い空」を聴きながらどこまでも続く直線道路をドライブしていたことを思い出した。「カリフォルニアの青い空」をハミングしながら快適に車を走らせる。

 

 

 

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日本の渚百選・高浜海水浴場

高浜海水浴場は、環境省選定の「日本の快水浴場百選」・「日本の渚百選」にも選ばれている日本屈指の海水浴場である。天然の白銀色の砂浜、波打ち際より水色、青色、沖合では深い藍色のコントラストを見せる海、周りを取り囲む深い緑の原生林、さらに時間や、雲の流れによって移り変わる景色はいつまで見ても飽きない。海水浴を楽しむ人の声を遠くに聴きながら景色を楽しむ。

 

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スケアン(石干見漁法遺跡いしひびぎょほういせき)

スケアン、又はスケ網(九州一円ではスキ)は、その起源が数万年前といわれる原始的漁法の一つで、遠浅の海岸に石積みを築き、潮の干満を利用して魚を獲る方法で石干見(いしひび)漁業ともいわれている。この地にある塩水海岸のスケアンは構築の時代は不明であるが、約80mにわたって石垣を築き、入江を中断している大規模なものである。潮が引いて石垣の内側に取り残された魚類を採取する方法で、ミズイカ、スズキ、チヌ、イワシ、キビナなどが獲れる。

 

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五島市岐宿町 魚津ヶ崎(ぎょうがさき)

ここ魚津ヶ崎周辺は、細長く西に突き出した岬により守られ、深い入江を持った静穏度の高い天然の良港である。古代には遣唐使船が最後の風待ちをするために停泊し、飲料水や食料の積み込み、あるいは難波津からの長い航海で傷ついた船体の補修を行ったといわれている 入江である。

 

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尼御前の墓(三井楽町波砂間)

ドライブしていると三井楽町(みいらくちょう)という案内を見る。この三井楽町は万葉の時代から美弥良久(みみらく)と呼ばれた土地である。 

みみらくの島はときの中央政府が置かれた京阪から見て地の果ての場所で、みみらくの島に行けば亡き人に会えるという伝説が蜻蛉日記に記されている場所でもある。

 

三井楽町に入って間も無く「尼御前の墓」という案内板に気づく。その案内に従って、進んでいくと石碑をみつけた。その石碑には

「みみらくの  わが日のもとの  島ならば   けふも御影に  あはましものを」と刻んでんである

歌意ーーーみみらくが、わが日本の島であるならば、今日もあなたさまに会いにいきますのに。

この歌は平安時代後期の歌人源俊頼(1055〜1129)が自歌集「散木奇(さんぼくき)歌集」の中で、「尼上」と呼ぶ美しい女性の死を痛んで詠んだものである。この歌の前書きに「尼上、失せ給うひて後、みみらくの島のことを思いて詠める」とあり、この歌は尼上という女性がみみらくで亡くなった後、源俊頼がみみらくの島のことを思い、尼上になりかわって詠んだ歌であることがわかる。

その「尼上の墓」がこの地に「尼御前の墓」として祀られている

 

「尼御前の墓」案内板を見ると

「尼御前は、太宰府長官の姪として生まれ、長じて唐貿易で巨利を得た富豪の妻となったが、唐貿易で唐に出向いた夫はいつまでも帰らない。長い間帰らぬ夫を待ち焦がれたが、遂に親族の止めるのもきかず、「若しも夫が亡くなっていても、みみらく島に行けば、その面影にでも会える」と願って召使いと二人でこの地に仮住まいして夫の帰りを待っていた。ある日、待ち焦がれた夫の船と思われる船が近づいてきたが、悪天候のため長崎鼻の隠れ岩に当たって沈んだ。尼御前は大いに嘆き悲しみ間もなく波砂間の海岸に身を投げた尼御前を村人が見つけて、この地に手厚く葬り今に至っている。」とある

聞くところによると、旧暦十日を命日として現在でも地域の婦人達が香花を供えお参りしているということであった。

 

尼御前の墓にお参りして、千年前の人も、我々現代人も恋する人を思う心は何一つ変わらないと改めて思う。そして、待ち焦がれる人を思い、遠くこの地まで足を運んだ尼御前の純愛に思いを寄せ、さらに絶望した尼御前の無念さに共感した村人はその死を悲しみ、その後、千年の時を超えて共感の思いを後世に伝えている人間のやさしさに感動する。このやさしさが五島のやさしさだと思う。心に残る場所となった。