今日はとても気持ちの良い秋晴れになった。絶好の観光日和である。私は与えられた宿題である五島観光の下見に出かけることとした。そして、今日は遣唐使の足跡を辿ることにした。
西暦630年より前後18回、260年間にわたって、我が国は、当時空前の繁栄を誇っていた唐(中国)に使者を送った。これを遣唐使という。遣唐使の主たる目的は唐文化の輸入であって、ために幾多の秀才・名僧が選ばれて海を渡っていった。
遣唐使船は初めの頃は、朝鮮半島の沿岸を航海する比較的安全な北路をとっていたが、新羅との関係が悪化してからは東シナ海を一気に渡って揚子江の河口をめざす南路をとるようになった。また風の影響で南路を取り損ねた場合には薩摩から奄美大島など島伝いに航海する南島路をとることもあった。
遣唐使船は難波津(大阪)を出て、瀬戸内海をわたり、筑紫の那ノ津(博多)・唐津・平戸と泊まりを重ね、最後に五島に来て風待ちをした。南路は、五島列島福江島の最北端となる三井楽の柏崎(美弥良久(ミミラクの崎)から渡航するルートで、直線距離では最も近い航路だったが、とても危険な航路であった。運良く中国大陸に到着しても、またそこから長安までの長い陸路の旅が始まるのであった。
魚津ヶ崎公園
遣唐使船日本最後の寄泊の地として「肥前風土記」にも記載されている魚津ヶ崎。
「遣唐使船寄泊地の碑」が設置されている。
「肥前風土記」に「値嘉の郷(五島列島)に八十余りの近き島あり。西に船を泊(もや)へる停(とまり)二処あり。一処の名を相子田の停といい、二十余りの船を泊(は)つべし。一処の名は、川原の浦といい、十余りの船を泊つべし。遣唐の使は、この停より発ちて、美弥良久の崎に至り即ち、川原の浦の西の崎是なり。ここより発船(ふなだち)して西を指して渡る」と記されている。ここにいう川原の浦がこの白石湾である。ここに風待ちをして順風を得た遣唐使船は、一挙に東支那海を押し渡ったのである。
岐宿 巌立神社は804年第16次遣唐使船の留学僧として川原の浦に滞在中の空海によって祭神を権現岳から宮の小島に勧請したといわれている神々を巌立神社に遷宮し現在にいたっている。
ここ白石湾のつぼ浦に、往時遣唐使船をつないだという「ともづな石」と呼ばれる自然石が残されている。現在、この地区では、遣唐使たちの命を懸けた偉業を讃え、小さな祠を建てて、豊漁、海上安全の神としてこの石を祀っている。
空海記念碑案内に曰く
古代五島列島は中国渡航の要衝の地でした。
中国唐の文化や古代オリエントの国々からラクダの背に揺られてシルクロードを通って唐の都長安へと伝わってきた文化は、さらに遣唐使によって日本に運ばれて我が国の奈良平安時代の政治、文化、宗教に大きな影響を与えました。
この遣唐使船が、当時値嘉島と呼ばれていた五島列島で順風を待つために寄泊するようになったのは奈良時代の終わり777年(宝亀八年)の第14次の遣唐船からでした。
当時の造船技術や航海術ともに幼稚であったため、中国に渡ることは大変な冒険で、それこそ死の覚悟が必要でした。
五島までは来たものの、どうしても中国へ出航する勇気がなく、「順風を得ず」と京の都へ引き返した遣唐大使もいました。
第16次(804年)の遣唐船で留学僧として入唐した弘法大使空海の「過照発揮性霊集」に
「死ヲ冒シテ海ニ入ル。既に本涯を辞して、中途ニ及ブ比(ころおい)ニ、暴雨帆ヲ穿(うが)チ、戕風(しょうふう)柁ヲ折ル。高波漢ニ沃ギ、短舟裔々(えいえい)タリ。・・・・・・・浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。但ダ天水ノ碧色(へきしょく)ノミヲ見ル。」と死を賭しての中国渡航の情景が書かれています。
ここ柏の岬を過ぎるとこれから西には日本の領土も島もありません。遣唐大使も最澄も空海も留学生、留学僧、乗組員の皆が今生の見納めになるかもしれない祖国最後の地、三井楽の島影を船べりから身を乗り出すようにして瞼の裏にしっかりと焼き付け、運を天に任せて、東シナ海に乗り出して行ったに違いありません。それはまさに「本涯を辞す」-日本本土の涯を去る-の感慨そのものであったでしょう。
この草原に立ち渺茫たる西方の大海原を眺める時わたしたちはこれらの人たちの勇気には全く頭が下がる思いがします。
この石碑は唐に使いした人たちの偉業を偲び又遭難して再び日本の土を踏むことができなかった人たちの鎮魂の碑としてもいつまでも心の中に残していただきたいと思います。
三井楽半島は日本遺産に指定されている国指定名勝地である。約6kmの溶岩海岸が続き海岸線に沿って草原が広がっている