ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

万葉の里を訪ねて

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9月15日は「遣唐使ゆかりの地を訪ねて」という目的で三井楽町に行った。三井楽町のあちらこちらを歩いていると思いがけない古代にまつわる歌碑を見つけた。これらの歌碑を見て歩きながら三井楽町は「万葉の里」と呼ばれていることを知った。

 

古代の五島列島は、「古事記」、「肥前国風土記」、「日本後紀」、「続日本後紀」、「蜻蛉日記」「万葉集」などにその名を留めている。それらに出てくる「値嘉」が現在の五島であり、古代より五島の存在価値が認められていたことがわかる。さらに、万葉の時代には三井楽は遣唐使船日本最後の寄港地として賑わいをみせていた。三井楽町の公園にはその歴史の面影を今に伝えようと、「万葉集」や「蜻蛉日記」のゆかりの歌碑が設置されていた。遠く中国(唐)につながる西方の海を眺めながら散策し、歴史や歌を楽しんだ。

 

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万葉集巻九ー1791番 読み人知らず (三井楽町 柏崎公園)

「旅人の  宿りせむ野に  霜降らば  我が子羽ぐくめ  天の鶴群」

「旅に出たわが子が、霜の降りる野で困ることがあったら、どうか天の鶴たちよ、私の子供をその温かい羽で守ってやっておくれ。」

この歌は、遣唐使として旅立つわが子の無事を祈る母の歌である。天平五年(733年)第9次遣唐使船の出航の時、旅立つ我が子の無事をひたすら願って詠んだ歌である。

渡唐した子供に思いを馳せる遣唐使の母は、まともに海路を進んだ後も、さらに続く二ヶ月に及ぶ陸路の旅を想像し、その苦労を案じて渡り鳥の“鶴”に思いを託す。その母の思いを鶴が

叶えてくれることに願いをこめた歌である。

遣唐使船は当時の拙い造船技術や航海技術などからまさに命懸けの航海であった。唐の優れた文化を吸収するという目的から多くの人たちが遣唐使に選ばれ派遣されたが、嵐に遭遇し4分の一は還らぬ人となった。

ここ三井楽町柏崎という最果ての地である「辞本涯」に立ってこの歌を詠むと母親のわが子を思う心情を感じ、まさに感慨深いものがある。
 

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蜻蛉日記 右大将道綱母(三井楽町 白良ヶ浜万葉公園)

「ありとだに  よそにても見む  名にしおわば   われにきかせよ   みみらくの島」
 「みみらくの島よ、そこには亡くなった人がはっきりと見えるところがあるという。本当に、噂通りなら何処にあるのか私に教えておくれ。せめて遠くからでも母の姿を眺めていたいから。」

注 当時、三井楽は「みみらく」と呼ばれ、亡くなった人が甦るという霊的な力を持つ

     聖地と思われていた。

蜻蛉日記」は、右大将藤原道綱の母(995年没)の日記で、摂政関白の夫は多くの妻を持ちその心変わりを恐れ、女性としての悩み苦しむ日々の辛さ、はかなさを綴ったもので、女流日記の文学の始まりとされている。上中下巻からなるその上巻にこの「みみらくの島」が詠まれており、この歌が詠まれた背景が次のように記されている。

「夫の心変わりを恐れ悩んで暮らすこと10年、その間この上なく慰め励まし、力づけてくれた最愛の母親が亡くなった。山寺で喪に籠る中、悲しみはつのるばかりで、遂に病の床につき、病魔払いの祈禱僧らが祈祷合間の雑談に「みみらくの島に行けば、亡くなった人が遠くに現れて会える」と話しているのを耳にし「母に会いたい」願いを詠んだ歌である。

 

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蜻蛉日記 右大将道綱の母の兄(三井楽町 高崎鼻公園)

「いずことか  音にのみきく   みみらくの   島がくれにし   人をたずねむ」

「いったい何処なのだろうか、噂に聞いているみみらくの島は、その島の岩陰に隠れて、亡くなってしまわれた母上を訪ねていきたい。」

亡くなった人がはっきりと見えるというみみらくの島を想像し、遠くからは見ることができても近づけば消え失せる母の姿を島の岩陰に隠れてそっと消えないように見てみたいという思いを歌っている。

 注 右大将道綱の母が亡き母を偲んで、歎きつつ「ありとだに  よそにても見む  名にしおわば  われにきかせよ   みみらくの島」を詠み、それを聞いた兄も泣く泣くこの歌を詠んで慰めたといわれている。

 

三井楽町が古代「みみらく」と呼ばれていたこと、そして「みみらく」は最果ての地でそこは亡き人に会える場所であったことを今回知った。悲しみが癒えないとき、もう一度会いたいと思うとき、「みみらく」はその苦しみを和らげてくれる地であったことを知って、古代どうしてそのような噂話ができたのか由来はわからないが、そのやさしさはわかるような気がする。

 

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万葉集3860番 筑前国志賀の白水郎の歌 読み知らず(三井楽町 白良ヶ浜万葉公園)

「おおきみの  遣わさなくに   さかしらに   行きし荒雄ら   沖に袖振る」

筑前国志賀の白水郎の歌(ちくぜんのくにしがのあまのうた)

 

天皇の命令でもないのに、自ら進んで友に代わり出かけていった荒雄が、沖の方で袖を振っているよ。」

志賀(福岡県志賀島)に住む荒雄が、友人に代わり、対馬の防人に食料を運ぶ船頭として旅立つ。荒雄は三井楽より船立ちして対馬に向かうが、途中嵐にあって遭難し、帰らぬ人となった。

 

三井楽町を歩くと古代(奈良時代平安時代)の人々の声が聞こえる。それは人間の心の叫びだったり、人間の生業を感じさせる声だったりする。そして、その声は今も私たちと同じ価値観で繋がっていると感じる。古代の人々は遠い昔の人々であるが、今も尚、身近な人々であると感じる。