ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「水辺の森公園」と「東山手」散策(2)

 

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大浦・東山手居留地跡(古写真より)

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大正末期頃の東山手と大浦海岸通り(大浦バンド) 古写真より

安政5年(1858年)、五カ国修好通商条約により、長崎では、外国人居留地が造成された。東山手は外国人居留地のなかで最初に許可された場所である。海岸通りの大浦バンドには領事館などが立ち並ぶ官庁街で、後方の東山手には教会、ミッションスクール、外国人住居などが建てられていた。居留地は、日本の治外法権の地区で、外国人の自治領域であった。大浦・東山手界隈はヨーロッパ風の建物(ホテル、事務所、劇場、バーなど)で町並みが形成され、多くの外国人で賑わった。

 

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東山手のオランダ坂

「水辺の森公園」から大浦東山手居留地跡へ昔の面影を探しながら歩いてくると石畳の坂を見つけた。立ててある石碑を見ると「オランダ坂」と書かれている。この坂が有名な「オランダ坂」である。かつて長崎の人々は、出島に住むオランダ人の影響から開国後も東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼び、「オランダさんが通る坂」という意味で、居留地の石畳の坂を一般に「オランダ坂」と呼んでいたようだ。

今日の「オランダ坂」は乾いているけど、雨に濡れた「オランダ坂」の風情もいいと思う。

 

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東山手13番館

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東山手12番館

オランダ坂」を上っていくと洋館が並んでいる。東山手13番館は明治30(1897)年頃に建てられた二階建ての洋館で賃貸住宅として使われていたとのこと。今は、観光案内所が開設され、1階部分はカフェとして使われている。2階からの眺めは港が見え、一息つくのに丁度いい場所である。
東山手12番館は、明治元年(1868)に建設されたもので、東山手居留地に残る洋館では最古の建物で国指定重要文化財である。竣工以来、ロシア領事館、アメリカ領事館、メソジスト派の宣教師住宅として使用されてきた。現在は長崎市が所有し、私学歴史資料館として公開されている。石畳の坂の上にある、広いベランダが配された堂々とした威容を持つ洋館である。そのベランダの椅子に腰掛けて港を見下ろすのも楽しい。

 

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活水女学院

東山手12番館の前が活水女学院の正門である。活水女学院は明治12年(1879年)メソジストはの宣教師エリザベス・ラッセル女史とジェニー・ギール女史が東山手16番に設立。日本の女学校の草分けである。活水の名前の由来はヨハネ伝4章10節「さらば汝に、活ける水を与えしものを」から採られている。

居留地の周りにはいたるところに煉瓦塀が見られる。いずれも居留地時代のもので様式はフランス積みとイギリス積みがあるそうだ。

 

 

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海星学園マリア様像

活水女学院の横を過ぎてさらに「オランダ坂」を上っていくと、海星学園に出る。海星学園は中高一貫のミッション系の学校である。正門から中を覗くと校庭の一画にマリア様の石像がある。近ずいてよく見ると石板に「神愛 ・人間愛」と彫られている。そうか、海星学園の校訓は「神愛・人間愛」だったことを思い出した。これは聖書の「心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という教えからとられたものである。東山手は昔も今も学園都市である。

 

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自転車通行禁止の標識

東山手散策を終えて自転車で丘を下りてきたら、自転車通行止めの標識を見つけた。どうして通行止めなのだろうと思いながら近づいて、補助標識を見ると急な下り坂だから禁止らしい。勾配20度と書いてあった。しかたないのでこの坂は諦めて迂回することにした。

 

東山手は居留地時代の名残がいろいろと残っていて楽しい。次回は古写真を見ながら歩いてみたい。また、雨に濡れたオランダ坂も散策してみたい。