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朝目覚めると朝日が差している。今日はとても気持ちの良い秋晴れの1日になりそうだ。そう思うと家にいるのがもったいない。サイクリングに行こうと思い立つ。ということで、今日のサイクリングは崇福寺に行くことにした。
江戸幕府が成立した頃、長崎に在留していた華僑(中国人)たちは長崎奉行や長崎代官の計らいで浄土宗の悟真寺に唐人墓地を整備して先祖等の祀りを行なっていた。その後、キリシタン禁制に伴い、寺請制度が設けられたことにより在留華僑たちは、華僑独自の檀那寺を自前に創建する必要に迫られた。そのような状況の下、まず、江蘇省及び浙江省出身の華僑たちの菩提寺として1624年(寛永元年)に興福寺が創建され、次いで、1628年(寛永5年)に福建省の泉州及び樟州出身の華僑の菩提寺として福済寺が建立された。さらに、1629年(寛永6年)長崎に在留していた福建省の福州人たちは、故郷の福州の僧超然を迎えて寺を作った。これが崇福寺の始まりである。
江戸時代初期に、長崎に創建された興福寺 福済寺 崇福寺は長崎三福寺(ながさきさんぷくじ)と呼ばれる。また、唐三か寺(とうさんかじ)とも称される。
さらに聖福寺を加えて長崎四福寺とも言われる。崇福寺はその一つである。
崇福寺の見どころは「三門」「第一峰門」「大雄宝殿」「鐘鼓楼」「媽祖堂」など国宝や重要文化財が多い。丹念にみていこう
崇福寺三門は境内入口に建つ外門である。門戸が中央と左右と三箇所あることから三門と呼ばれる。竜宮門とも呼ばれている。
現在、崇福寺の象徴となっているこの門は最も中国趣味の濃厚なデザインである。しかし、この建物は、すべて日本人技術者によって建設されたものである。以前あった山門は火災で倒壊し、嘉永2年(1849年)再建された際に、初めて竜宮門と呼ばれる様式で日本人によって造られたものである。
狛犬の配置は日本と同様、向かって左側の毬を抱えているのがオスで、右側の子獅子と戯れているのがメスである。オスが抱えている毬を繍球(しゅうきゅう)といい、この中から獅子が生まれると考えられていて、中国ではめでたいものとされている。
第一峰門は、材料を中国寧波で加工し、唐船数隻で長崎に運び、元禄8年(1695年)に建設された。軒下の構造組物は四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組であり、国内では類例がなく、中国華南地方でも珍しいものである。軒下軒裏には極彩色の吉祥模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗である。
門扉に描かれている「蝙蝠」は、中国では発音が「福」と同じ音であることから吉祥を意味し、福寿を祝うものとされている。
崇福寺の本堂である大雄宝殿は、有力な財物施与者であった何高材の寄付により、中国で加工し、唐船で運び、正保3年(1646年)に建設された。当初は単層屋根であったが、35〜6年後に重層屋根に改造し、現在の形になった。
大雄宝殿の御本尊は釈迦如来坐像。向かって右脇侍は加葉尊者、左は阿難尊者で、ともに立像である。左右に並ぶ十八羅漢は唐仏師による作品で、黄檗系彫像の代表作と言われている。
媽祖は、道教の海上守護神で、天后聖母・天妃などと呼ばれ、特に華南地方で信仰が厚い。唐船は船毎に媽祖像を祀り、長崎港停泊中は、船から揚げおろして、唐寺の媽祖堂に安置した。長崎の唐寺は媽祖堂の建立から始まったという傾向があり、媽祖堂は寺内でも重要度の高い建物であった。
現在の崇福寺媽祖堂は寛政6年(1794年)唐船主からの砂糖1万斤の代銀12貫目で建設された。
媽祖(まそ)は、航海、漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神で、もっとも地位の高い神ともされる。媽祖は「千里眼」と「順風耳」の二神を脇につき従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降、媽祖の隨神になった。
崇福寺の境内を散歩していたら、10人位の中年の男女グループが上って来られた。「おはようございます。」と挨拶をしながら、「皆さんはどのような集まりですか?」とお聞きしたら、長崎二十八ヶ寺の札所巡りをしている仲間ということであった。今日はすでに三つのお寺をお参りしてきたということであった。四国巡礼は白装束で手甲脚絆が一般的だが、今日の札所巡りのグループは各自身軽な服装で何も統一されたものはなかった。気楽に札所巡りをするのもいいなと思った。