ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

大人の善意に支えられて

昨年12月30日 ロスアンゼルスに住むご婦人からワインが届いた。お歳暮という張り紙がしてあった。贈り主は、私がその昔ロスアンゼルスで大変お世話になったKさんの奥様である。残念なことにご主人のKさんは数年前にお亡くなりになった。贈り物のワインを見ながら、お世話になった昔を思い出した。

 

 

私は1973年(昭和48年)大学を卒業した後、1年間アメリカに遊学した。当時小田実さんの「何でも見てやろう」という著書が若者間で話題になり、それに触発されて海外へ行ってみようと思ったのがきっかけである。

 

私は大学卒業後は長崎で、親友の父親が経営する会社に親友と一緒に就職することにしていた。親友は大学卒業後、すぐに父親の会社に就職するとばかり思っていたら、「就職したら世界を見る機会はない。」だから、父親に話しをして、「あと1年間、時間をください。若い時に世界を見て視野を広げたいのでお願いします」と父親である社長さんに頼み、大学卒業と同時に海外見聞を広めるため出国した。

 

私もその話に即発されて、私も海外の見聞を広めたいので1年間アメリカに遊学したいと親友の父親である会社の社長さんにお話しして了解してもらった。

 

親友はアメリカに観光ビザで入国して、アメリカの滞在期限が切れたら欧州アジアを回って一年後に日本に帰国という計画であった。

 

私は貧乏学生でそのような資金はなく、計画としてはアメリカに行き、バイトをしながら1年間滞在して英語力を磨くというものであった。

当時日米間の往復航空料金は30万していたので、貧乏学生である私はその資金から貯めなければならず、まず、半年かけてお金を貯めて実行したいと言ったところ、社長さんはお金は貸すからすぐに出発しなさい。時間が無駄になると言ってお金を貸してくれた。

 

当時、小田実さんに影響されて多くの若者がヒッピー旅行者になり、外国の空港に日本人のバックパッカーが多く見られるようになっていた。そのような時期であったので、規制が厳しくなり、旅行会社に航空券の手配を頼んだら、個人の立場で観光ビザを取るのは無理だから諦めなさい。旅行会社が責任を持つ団体旅行しかアメリカのビザは取れないと言われ、相手にしてもらえなかった。自分でアメリカのビザをとったらまた来てくださいと福岡のアメリカ大使館の場所を教えてもらった。確かに往復航空券の費用は準備できたけど、旅行資金が全くない状態ではビザはおりないということであった。それで、また親友の父親である社長さんに旅行資金が100万円あると言う証明がないとビザがおりないので、100万円を見せ金として使うので私の個人口座に一時的に100万円を入金してくださいと頼んだらそれも了解してくれて、その銀行口座の通帳と社長さんが今回の1年間のアメリカ旅行を了承し、支援しているということを書いた証明書を持って福岡のアメリカ大使館にビザの申請に行った。当時アメリカには若者のバックパッカーがたくさん流入していたこともあり、審査は厳密であったが、私は会社の支援のもとにアメリカ旅行をするということが認められて、係官から、たくさん勉強して来なさいと言われてビザを出してもらった。

 

往復航空券を買った残りのお金は30ドル(当時のレートで約¥10,000)だった。その30ドルを握りしめてアンカレッジ経由ロスアンゼルス行きの飛行機に搭乗、羽田を飛び立った。

 

 

貧乏学生が30ドルを握りしめて未知の国アメリカに降り立つことができたのは、Kさんを紹介してもらっていたからである。「困ったことは何でもKさんに相談してください。Kさんはアメリカ滞在が有意義になるよう様々なアドバイスをしてくれます。佐賀出身の方で長崎人には親近感を持って接してくれます。」先にアメリカに行った親友から受け取った国際郵便の手紙を何度も読み直し、貧乏旅行でも何とかなると腹を括ってKさんに連絡した。飛行機の到着時間に合わせて、Kさんはロスアンゼルス空港に迎えに来てくれていた。手紙にあった通り、初対面の私に対して兄貴のような包容力で接してくれた。

 

しばらく、Kさんの家に居候しながら今後のことを相談した。お金がないのでアルバイトしたいこと、1年間滞在して英語力を磨きたいこと、この2点を叶えるためにKさんのアドバイスを受けた。

 

英語力を磨くためには、アメリ人の家庭に入ることが一番よいだろう。また、アルバイトするならハウスキーパーが君には良いだろう。ということで地元の新聞に求職の1行広告を出してくれた。そうしたらロスから車で2時間ほど離れたサンヂエゴから引き合いがあり、Kさんにそこに連れて行ってもらい、話をつけてもらった。

 

その家庭はご主人が大学教授で奥さんは女性実業家として活躍されていた。子供さんは小学五年生の男の子と小学3年生の女の子がいた。そこでの私の仕事はハウスキーパーと子供の送り迎えが仕事であった。ハウスキーパーの仕事は食事のテーブルセット、食後の皿洗い、各部屋の掃除、洗濯などの日常の仕事であった。また、男の子に柔道を教えてほしいという要望があったが息子君が希望しなかったためそれは実施できなかった。約1年間そこの家庭に入り英会話の勉強をすることになった。その他、冷蔵庫のなかのものは好きなだけ飲み食いして良い。車はマツダのピックアップを自由に使って良いという条件でお世話になった。最初は英語が聞き取れなくて苦労したが、小学3年生の娘さんが親切に発音を訂正してくれた。そいう生活を続けていくうちにだいたい英語の聞き取りができるようになってスラングを交えて話すようになった。ある時、奥さんから子供達が映画を見たいと言っているので町の映画館に連れて行って欲しいという話があった。映画の題名は「ロックオペラジーザスクライストスーパースター」という。子供が見たいオペラだったらきっと退屈するだろうなと思いながらその日、子供たちを映画館に引率した。しかし、一旦映画が始まると映画の始まりから終わりまで、その映像の迫力と音楽の強烈なリズム、オペラ歌手の歌唱力に圧倒された2時間であった。オペラがこんなにも魂をゆさぶるものかをアメリカの小学生に教えられた。

毎日、家庭の仕事を手伝い、毎週土曜日の夕方からマツダのトラックでロスアンゼルスのKさんの家に遊びに行き日本料理をご馳走になった。そして、1年間が瞬く間に過ぎて日本に帰国することになった。日本がまだ貧しかった時、私の貧乏アメリカ滞在英語学習は多くの大人たちの善意に支えられ無事終わることができた。

 

 

私が若い時に実行したアメリ旅行は、その当時の大人たちが若者の力になってあげたいという善意が集まって実現したことである。長崎の社長さんの資金提供と特別な計らい、ロスアンゼルスのKさんご夫婦の献身的なお世話、受け入れてくれたアメリカ人教授ご夫妻の優しさなど、若者が挑戦していることに対して力になってあげたいという善意の手助けであった。私はすでに70になった。私は昔の大人が私にしてくれたように、私は若者に善意の手を差し伸べているだろかと反省する。これからは順送りで社会にご恩返しをしていきたいと思う。