ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「梅原猛の授業 仏教」を読む

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カバー図版 金剛宝菩薩坐像(東寺蔵)

コロナウイルスが猛威をふるう中、全国的に外出自粛が叫ばれている。アウトドア派の私も出来るだけ外出を控え、できるだけ人が集まるところは行かないようにしている。そのような毎日の中、自宅で本でも読もうと図書館に行った。何かおもしろい本はないかと書架を探していたら、そこで「梅原猛の授業 仏教」を見つけた。

 

梅原猛の授業 仏教」は梅原先生が仏教系の私立中学校で行った宗教の授業である。梅原先生は凶悪な少年犯罪が相次いで起こるのは、少年に道徳教育が与えられていないのが一つの原因であろうと考えている。

「道徳とは、人間はどう生きたらよいか、何をしたらよいか、何をしてはいけないか、そういうことを学ぶ教科ですが、日本の小学生や中学生はこの道徳という人間としてもっとも重要なことが学校教育で教えられていない。これは日本の教育の大きな欠陥です」と梅原先生はこの本の中で言われている。

 

戦前の学校教育では修身という他律的な強制的な道徳が行われてきたが、それが戦後、マッカーサー指令によって禁止された。他律的な強制的な道徳が禁止されたのであれば、それに代わる自律的な道徳が施されなければならないが、それがなされないまま現在まできている。

 

梅原先生は「宗教を失うと道徳を失う」という言葉のように、道徳教育と宗教教育は密接な関係にあると考え、求められる自律的な道徳教育は日本人が長い間培ってきた仏教の思想に基づく教えが求められる道徳につながると考えておられる。梅原先生が仏教系の私立中学校で行った宗教の授業はまさに仏教に基づく道徳教育であった。

 

梅原先生の仏教の授業は「われわれは宗教を失った時代に生きている。宗教を失ってもいいんですが、心配なのは、それによって道徳も失っているのではないか、ということです。ドストエフスキーが言ったように、神を信じなかったら、道徳はなくなる。道徳がなかったらなにをしてもよい、という時代に入っているのではないかと私は思うのです。」という言葉から授業が始まった。

 

私にとって仏教は幼い時から身近にあった。小さい時からお坊さんが自宅の仏壇の前でお経を上げている様子を見てきた。家の仏壇の前で手を合わせ、お墓参りをし、お寺に行ってはお題目を唱えることが自然に身についていた。それでも、私は特別熱心な仏教信者ではない。親が仏壇に手を合わせお参りするのを見て育ち、ただその通りやってきたにすぎない。それが当たり前と思ってきたので仏教とは何かなど根源的意義を考えたことはない。そもそも人間にとって宗教が必要かどうかということも考えたこともない。幼い頃から仏教に触れてきたにもかかわらず、仏教に関して根源的に考えることを何一つしてこなかったので、仏教についての理解に深みがない。私の仏教感は葬式仏教の枠を出ていない。

 

仏教について、私はその程度の知識と認識しか持たずこの年齢まで生きてきた。最近、自分の人生を振り返り自分はどこから来てどこへ行こうとしているのかと考えるようになってきた。そのようなとき仏教に関心が高まり「梅原猛の授業 仏教」を見つけ手に取った。

 

12時限に及ぶ梅原先生の仏教の授業を読み終えて、私も中学生時代に、この授業を受けたかったと思った。そうすればもっとまともな人生を歩むことができたのではと思う。梅原先生の仏教の授業を読んで、仏教の三つの教えである人間の平等、自己管理と知恵、そして慈悲をやさしく解説していただいた。仏教という宗教にはこのような意義があったのかと知った。またキリスト教イスラム教などの一神教に対して仏教の多神教の寛容性がこれからの世界に求められていることも納得できた。

 

仏教の八聖道とか六波羅蜜ということを授業で梅原先生は詳しく説明されていた。

仏教の八つの正しい道を意味する八聖道は正見(正しい思想を持つ)、正思惟(心正しくする)、正語(正しい言葉を使う)、正業(正しい行いをする)、正命(正しい生活をする)、正精進(正しい努力をする)、正念(正しい目的を持つ)、正定(心を集中させる)の八つの仏教徒の進む道を示している。

六波羅蜜は悟りに至る道ということで、布施(恵み施すこと)、持戒(道徳的規則を守ること)、忍辱(耐え忍ぶこと)、精進(努力すること)、禅定(集中すること)、智慧(知恵を持つこと)が示されている。

お釈迦様が説かれた仏教を信じるものは人間としての完成を目指して八聖道と六波羅蜜に精進していく。そこへの道は仏教の根源的教えである「欲望を抑え、欲望をコントロールできる人間になれ、そうすれば自由になれる」というお釈迦様の教えの実践であり、また「自己の拠り所は自己のみである」というお釈迦様の教えである自己管理の実践になる。それがそのまま人間教育すなわち道徳教育に繋がるのだと思う。

 

私も仏教徒の一人としてもう少し早く八聖道と六波羅蜜に気づき正しい思想で、正しい心で、正しい言葉で、正しい行いをしていれば、もっとまともな人生が送れただろうにと悔やむ。仏教的に言うと悪いことばかりして生きてきたと反省する。

 

今までも何かの機会にこのようなことは聞いたことはあったと思うが、都合の悪いことは上の空で聞き流してきたので何一つ身についていなかった。素直で吸収力に富んだ中学生の時代にこのようなことを学ぶべきであったと思う。そうすればもっとまともな人生を歩めたのにと思う。

 

しかし、今になって、そんなことを言っても始まらない。人生における失敗は失敗として受け入れて残り少ない人生を歩むしかない。「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」に期待して生きるしかない。