ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「コロナの時代の僕ら」を読む

 

 

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この本は、イタリアの小説家パオロ・ジョルダーノによるエッセイである。

紹介文には

「本書は、イタリアでコロナウイルスの感染が広がり、死者が急激に増えていった本年2月下旬から3月下旬に綴(つづ)られたものです。感染爆発を予感しながらも、最悪の事態を阻めなかったみずからとイタリアの人々、そして人類のふるまいを振り返る、著者の思考と後悔の記録です。

僕らはどこで、何を間違ってしまったのか? 図らずも到来してしまった「コロナの時代」をいかに生きるべきか? 日本の私たちにとってもけっして他人事ではない、とても重要な記録であり、思索です」とあった。

 

 

コロナウイルスの流行は私たちに多くのことを教えてくれている。コロナウイルスの世界的流行から

各国の対応の違いを知ることができた。リーダーの指導力の差によって効果に違いが出ることも知った。フェイクニュース感染症以上の速さで伝わることも知った。

 

著者はコロナウイルスの拡散について数式を用いて明快に世界規模に拡散することを

説明している。そして、その拡散防止のためには全世界の人びとが軟禁状態に耐えることがとても重要であると数学を使って分かりやすく語っている。

 

それらの感染症の数学は大変興味深いものであったが、この本読んで一番心に残ることは、今起こっている感染症は偶発事故でもなく、単なる災いでもない。このことは少しも新しいことではない、過去にもあったし、これからも起きることなのだと語っていることであった。そしてその根元的問題は私たち人間の態度、行動であり、全ての原因は私たち人間にあると言う指摘であった。

 

「世界は今なお素晴らしく野生的な場所だ。僕らはその隅々まで探検し尽くした気でいるが、実は微生物の未知なる宇宙がまだいくつもあり、いまだ仮説すら立てた者のない異種間の相互作用もたくさんある。環境に対する人間の攻撃的な態度のせいで、今度のような新しい病原体と接触する可能性は高まる一方となっている。病原体にしてみれば、ほんの少し前まで本来の生息地でのんびりやっていただけなのだが。

森林破壊は、元々人間なんていなかった環境に僕らを近づけた。とどまるところを知らない都市化も同じだ。多くの動物がどんどん絶滅していくため、その腸に生息していた細菌は別のどこかへの引っ越しを余儀なくされている。家畜の過密飼育は図らずも培養の適地となり、そこではありとあらゆる微生物が増殖している。昨年の夏にアマゾン川流域の熱帯雨林で起きた途方もないスケールの森林火災が何を解き放ってしまったか、誰にわかるだろう?もっと最近のオーストラリアでの野生動物の大量死はいったい何を引き起こす?科学がまだ記録したことのない微生物が、新天地を急いで探している可能性だってある。そんな時、僕たち人間に勝る候補地がほかにあるだろうか。こんなにたくさんいて、なお増え続ける人間。こんなにも病原体に感染しやすく、多くの仲間と結ばれ、どこまでも移動する人間。こんな理想的な引っ越し先はないはずだ。」

—『コロナの時代の僕ら』パオロ ジョルダーノ著ー

 

病原体から見ると私たち人間は絶好の生息場所と言えるらしい。

日本人に限らず、全世界の人びとが今コロナウイルスとの闘いの中で自宅軟禁を余儀なくされている。私たちは一刻も早く日常を取り戻したいと考えている。しかし、コロナが終息したら、以前とまったく同じ日常に戻っていいのだろうかと疑問を持つ。

 

何を変えるのか。どうしたらいいのか。すぐに明確な答えは出てこないが、少なくとも今のままではいけないという思いをこの本を読んで感じた。

これまでとは違う未来のあり方を模索していかなければと思う。