ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「あのころはフリードリヒがいた」を読む

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作者 ハンス・ペーター・リヒター(1961年出版)日本語版1993年


悲しい本である。読み終えて怒りとため息と、そして深い悲しみがこみ上げてくる。

この本は岩波世界児童文学集に入っている。

この本は、ある大学の推薦図書として上げられていた。大学生としてはこれくらいは教養として読んでおくようにという推薦図書である。大学生に対して児童文学を推薦するのはどうなんだろうと思いながらも、教養不足の私は読んだことがないので読むことにした。

 

この本の作者ハンス・ペーター・リヒターは1925年生まれのドイツ人社会学者である。

この本は1925年から1942年までの18年間の同い歳のユダヤ人であるフリードリヒとの記憶を記したものである。ハンスとフリードリヒは生まれた時から同じアパートに住んでいて、ハンスが生まれて1週間後にフリードリヒが生まれている。そういう関係で小さい時から兄弟みたいにいつも一緒に仲良く遊びながら育った。

 

フリードリヒが生まれた時、フリードリヒのお父さんは公務員でフリードリヒ家は何一つ不自由のない生活を送っていた。しかし、1933年ヒットラードイツ帝国首相になる頃からユダヤ人への迫害が始まった。

 

1933年、ハンスとフリードリヒは8歳で当時の少年達の憧れの的であるドイツ少年団へ参加した。二人して初めて少年団に参加した時、会の終わりに「ユダヤ人は、我々の災いのもとだ!」「ユダヤ人は、我々の災いのもとだ」と何回も何回も大きな声でみんなで唱和させられた。そのとき、フリードリヒは団から立ち去り、そしてハンスは何もできずだまって見送った。

 

それ以来、フリードリヒの周りには様々な迫害が起こった。父親がユダヤ人を理由に職場を解雇された。アパートの家主がユダヤ人を理由にフリードリヒ家に立ち退きを要求した。1934年、フリードリヒはユダヤ人を理由に小学校を転校させられた。1935年、これまでフリードリヒ家に来ていた家政婦さんが、ユダヤ人はドイツ人を家事労働者として使用してはならないという新しい法律のため辞めていった。

1936年、ハンスのお父さんがお互い信頼し合っているフリードリヒのお父さんに告げた。「あなたの宗教上の仲間はもう大勢ドイツを去った。これからもっともっと迫害が圧迫がひどくなる。家族のことを考えて早くドイツを出て行った方がいい。」フリードリヒのお父さんは言った「私も家内も息子もドイツの国籍を持つ正式なドイツ人です。中世ではなく今は20世紀です。自由が制限されたり、不当な扱いを受けることは少しはあるかもしれない。しかし、私達家族が荒れ狂った民衆に情け容赦なく殺されるということはないでしょう。辛抱強く我慢して頑張り通したらこの不安定な運命にも終止符を打つことができると思います。あなたが率直に言ってくれたことと親身に心配してくれたことに心からお礼を言います」

1938年ユダヤ人商店への襲撃やユダヤ人大虐殺が起こった。フリードリヒのお母さんは迫害の厳しさの中、持病が悪化して亡くなった。

1940年、フリードリヒはドイツ人女性と親しくなった。彼女はフリードリヒがユダヤ人であることを知っていた。次の日曜日にデートを約束したが、フリードリヒは行かなかった。ユダヤ人はドイツ人の血統を持つ国民と結婚してはならないという新しい法律ができていた。ユダヤ人といっしょにいるのが見つかると女性も収容所行きになるのが常であった。

1941年、フリードリヒのお父さんが逮捕され収容所へ送られた。

1942年、大空襲の後、破壊されたアパートの一角にフリードリヒの死体があった。彼は防空壕に避難しようとしたが、ユダヤ人という理由でそこを追い出され、命をなくした。

 

1945年5月8日、ドイツ帝国が崩壊した。この日までユダヤ人迫害は続いた。アウシュビッツ収容所では300万人のユダヤ人が命を絶たれたと言われている。

 

これは、幼い時からの仲の良い友達一家が、迫害のためお母さんもお父さんもそして友達のフリードリヒもみんないなくなった記録である。

 

大学の教授がこの本を教養として推薦図書にした意味がよくわかった。私もこれから社会を担っていく若い人には是非この本を読んでもらいたいと思う。

 

ドイツ国民が犯した過ちは、ドイツにしか起こらないということではない。どこの国においても起こり得ることである。ドイツ国民が犯した過ちは、昔のことで現代では起こりえないことではなく、これからも起こり得ることである。

 

 

あの当時のドイツ国民は個人主義を知らなかったのではない。民主主義を知らなかったのでもない。世界大不況の余波で国民が厳しい窮乏生活に追われている中、いつのまにか全体主義国家になり、いつのまにか権威主義国家になり、気付いたときは大多数の一般国民が、全体主義国家の強力な推進者になっていた。気づいた時は反対の声を上げることさえできない状況になっていた。

 

麻生副総理はかつて憲法改正論議に関連してナチスの手口に学べと発言をした。政治家は国民 のリーダでもある。リーダーである政治家が何を考え、国民をどこに連れて行こうとしているのか厳しく見ていくことは有権者の義務と思う。

私たちは「あのころはフリードリヒがいた」を決して忘れないようにしなければならない