ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「地球を測った男たち」を読む

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18世紀フランスの科学アカデミーでは地球の正確な形体とその大きさについて議論が起こっていた。地球が両極方向に長楕円か、あるいはその反対に扁平楕円かそして大きさはいかばかりかという疑問である。この問題の解決を図るために地球そのものを測ったらどうかという発想のもと、北極と赤道に測量隊を派遣することが決定した。二隊の測量結果を付き合わせて、始めて地球の形体と大きさについて一つの結論を引き出すことができるということである。

北極に測量隊を派遣することは外交上も地理上も比較的容易であった。しかし、赤道地帯の測量については外交上の問題を始めとして地理、地形、気候、風土、自然、未開地などの問題から派遣地の選定に苦慮したが、当時スペインが統治していたペルーのキト領内に決定し、そこに、赤道線上の子午線1度の距離を測ることを目的とした遠征測量隊が派遣されることとなった。

「地球を測った男たち」はそのペルー遠征測量隊の記録である。

 

 

派遣されたのは科学アカデミー会員で数学者、遠征隊長のゴダン、

科学アカデミー会員で数学者、天文学者のブーゲー、

科学アカデミー会員で地理学者のコンダミーヌ、

医師で博物学者のジュシュー、(後に科学アカデミー会員になる)

地理学助手のクープレ

技師のゴダン・ゾドネ(ゴダンの甥)

時計技師のユゴー

技師のモランヴィル

外科医のセニエルグ

技師のヴェルガンの以上10名であった。

 

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遠征隊は1735年5月にフランス艦隊の輸送船ポルトフェ号でフランスを出発した。1735年11月16日南アメリカ大陸の北部にあるスペイン領カタルヘナに到着した。そこでスペイン王はこの測量隊にスペイン海軍士官2名を監視のため同行させることを義務づけた。1736年3月10日マンタ到着。

これまでは海路であったが、陸路においては、サソリの襲撃、ジャガーなどの野獣、毒蛇、蚊の大群、種々の疫病、雨期などに苦しみながら、また雇った人夫に荷物を盗まれる被害にあいながら険しい道なき道を進まなければならなかった。1736年6月

目的地「キト」に到着した。それは出発してちょうど1年後であった。

 

到着して、すぐに体制を整え、測量を行うための基礎資料となるこの地方の正確な地図作成に取り組み「キト」と「クエンカ」間340kmに渡る地図を作成した。

1736年秋、そして、この地図上に「キト平原」が子午線に沿って南北に伸びていることを確認しながら、この地図上に一連の三角形を記入していった。この準備作業が完了したところで、ようやく基線の測量を含めた最初の測量に立ち向かった。

 

本格的に測量を始めようとしている中、地理学助手のクレープが病に倒れた。黄熱病という風土病であった。派遣隊の医師ジュシューの懸命な治療も虚しくクレープは逝った。派遣隊に出発前から言われていたこと「この遠征には危険がつきまとう」ということを初めて、隊員は実感を持って理解した。

 

三角測量は来る日も来る日も続く。しかも。それは平坦地ばかりではない。キトは海抜2800mの高地にある場所である。三角測量の標識を設置するため、さらに高地に行かなければならないこともある。彼らはある時は荷物を担いで4800mの山頂まで絶壁をよじのぼることもあった。そして、下山途中、天候の急変で猛烈な突風に見舞われ山肌に張り付いて三日三晩過ごしたこともあった。

 

1739年夏、久しぶりの休暇をとって祭りを見物している時、白人支配に反感を持つ地元民が暴徒化した騒動で外科医のセニエルグが刺殺された。

 

1737年から三角測量によって子午線の弧の長さを一歩一歩測ってきた。そして1740年、測り終えた。

次は、弧の角距離を計算しなければならない。「孤の角距離、すなわち地球の周囲の何分の1に当たるかを計算するためには、孤の南北両端を決定し、その緯度を度、分、秒まで厳密に測定する。そのためには、孤の両端において、ある星の天頂までの距離を観測することが必要である。こうして測定された距離の差、または、その星が二つの天頂の間にある場合にはその合計が、子午線孤に対する角距離となる。」この作業は、一見簡単に見えるが、実際は3年以上のもの月日がかかる作業である。1740年から1743年にかけて遠征隊はこの天体測量を行った。

 

ペルーは地震が多い国である。1743年4月、遠征隊が拠点にしている「キト」を地震が襲った。たまたま、その時、足場の上にいた時計技師ユゴーは足場から転落して亡くなった。3人目の死者となった。

 

測量が終了したことを受けてフランスに帰国することになった。しかし、帰国は残りの隊員全員一緒ではなかった。ブーゲーは終了とともに往路コースで帰国の途につき1744年6月パリに帰着した。

コンダミーヌとモランヴィルはアマゾン川探検をしながら帰国する計画を立て、ラグナで落ちあって帰国する予定であった。しかし、モランヴィルは約束の地に現れなかった。来る途中のアンデス山脈の谷底に転落したかジャングルの奥深く飲み込まれてしまったか杳として消息はつかめなかった。

コンダミーヌは1745年2月パリに帰着した。

ヴェルガンは1745年帰国した。

 

ゴダンは測量終了後もそのままペルーに滞在して、数学者として勤めていたが1751年スペインのリスボンに帰国した。

 

ジュシューは、1751年にゴダンと一緒に帰国する予定でいたが、ペルーに滞在中に見た虐待と病気と事故の非人間的世界、気違いじみた世界、見ることさえ堪え難い奴隷労働の世界である鉱山労働の悲惨な状況を忘れることができず、その奴隷救済のために医者として現地にとどまることを決めた。そして活動を続け、1771年6月に帰国した。

 

ゴダン・ゾドネはペルーで結婚。1773年妻を伴い帰国した。

 

「子午線1度の測量のために行われた赤道直下の旅」はまさに過酷なものであった。

長い遠征の中で仲間同士衝突したり、分裂したり、敵同士になったりしたが、この10人のメンバーは何年間もペルーの過酷な自然の中で、三角形の辺と角を、次から次に測ってはまた測り、測ってはまた測り、一歩も譲らない厳密さで数字の正確さを期していった。彼らは何年もの間、倦むことなく、照準とする星の高度の測量を繰り返した。正確さを求めるために彼らが取り組んできたことは真の科学者としての姿勢そのものであった。

この本を読み終えて、科学の冒険者である彼らがいかなる困難にも屈せず、最後までやり通した原動力は何であったかを考えると、どうしても知りたいという「知への探求心」であったように思う。そしてそれを支えたのは、最後までやりとげる彼ら個々の強靭な精神力と意志の強さだと思った。遠い時代の異国の科学者に尊敬の念を込めて拍手を贈りたい。