ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「“焼き場に立つ少年”をさがして」を見る

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                                   「焼き場に立つ少年」 写真=NHK提供

 

長崎は75回目の原爆の日を迎えた。当時、米軍カメラマンが撮影した写真「焼き場に立つ少年」の謎に迫るドキュメンタリー番組『“焼き場に立つ少年”をさがして』(NHK Eテレ)を見た。

 

 

 

 

この写真は米軍カメラマンのジョー・オダネル氏が撮影した写真である。写真には、「焼き場にて、長崎 1945年」(Cremation Site, Nagasaki 1945)と記されてある。

10歳くらいと思われる少年が、口を固く結びながら“気をつけ”の姿勢をしてまっすぐに立っており、視線をまっすぐ前に向けている。少年は、目を閉じた幼児を背負っている。この幼児は少年の弟で、すでに息を引き取っており、少年は火葬の順番を待っている。

 

少年の身元は、明らかになっていない。この写真が撮影された時期について、1945年(昭和20年)10月6日もしくは7日頃ではないかと推定されている。撮影された場所は、長崎であるとされているが、長崎のどこであるかは明らかになっていない。

 

2007年7月、長崎県美術館で催された展示会で、『焼き場に立つ少年』が特別展示された。同年10月、『焼き場に立つ少年』が長崎市に寄贈され、長崎原爆資料館に展示された。2017年の年末、ローマ教皇のフランシスコは、この写真を印刷したカードに署名するとともに「戦争がもたらすもの」という言葉を添えて、全世界の教会に配布するように指示を出した。

 

長崎は75回目の原爆の日を迎えた。この写真を見るたびに、戦争の苦しみ悲惨さを感じ胸が張り裂ける思いになる。番組では「焼き場に立つ少年」のその後をあらゆる手がかりを元に探し求めたが、その後の行方は杳として知れず、何も明らかにできなかった。推測することしかできないが、少年君は原爆にあって両親を亡くし、弟君と二人だけ生き延びた。けれど、それもつかの間、弟君もついに息を引き取ってしまった。両親もいない、頼るべき親類もなき今、少年は、兄の務めとして弟君を火葬するため、弟君を背負って火葬場に来て順番を待つ。写真はその時の姿である。その後、少年君は係員に弟を委ね、弟君が火葬される間しばらくそれを見つめていた後、静かに去って行った。臨時の火葬場で多くの人々の火葬が行われる中、丁寧に骨を拾うこともできない状況での火葬だったことを知って涙を禁じ得ない。

少年君の姿を見ると、少年君にこれだけの悲しみ苦しみ残酷な仕打ちをもたらした、戦争を引き起こした責任者は誰だと叫びたくなる。戦争を引き起こした人間を憎みたい。口を固く結んでじっと前を見つめる少年君の姿はあらゆる苦しみあらゆる不幸をいっぺんに背負い、それでもそれに堪えていこうとする姿勢を感じる。これ以上の辛さはない、潰されるような辛さに堪えている姿は、二度と戦争はしないでという少年君の無言の叫びを聞く思いがする。

 

50年前に出版された「日本原爆詩集」という本がある。その中に長崎の松本裕利さんが作った詩「胸に怒りを秘め  嗚咽抑え  おれたちは友の柩を送る」が載っている。その詩に模して少年君の心を詠む。「胸に怒りを秘め  嗚咽を抑え  われはおとうとを荼毘に付す」

 この焼場に立つ少年の写真を見て、二度と戦争をしない国になることを心に誓う。二度と核兵器が使われることのない世界を目指すことを誓う。

 

75回目の原爆の日に合わせて、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が、Twitterに投稿したビデオメッセージで、核兵器根絶を訴えた。

広島や長崎で起きた惨劇に触れながら、「たった一つの爆弾が破滅を意味します」と強調。核戦争への備えや対応は不可能だと訴え、「核兵器禁止しかない」と核兵器禁止条約への批准参加を各国に求めた。

 

広島・長崎は人類最初と最後の被爆地として核兵器廃絶を主張している。

広島・長崎の核兵器廃絶運動に共感します、連帯します、というニュージーランドジャシンダ・アーダーン首相から力強いメッセージが届いた。心強く思うし、世界の人々と連帯できる喜びを感じる。

反面、唯一の被爆国である日本は核兵器禁止条約を批准していない。

残念なことである。

日本政府には被爆者の思いを受け止めて、1日も早く核兵器禁止条約を批准してもらいたいと強く思う。