ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「ハウステンボスの挑戦」を読む

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ハウステンボスの創業者、神近義邦氏(78歳)の訃報が長崎新聞に掲載された。型破りの発想と行動力で長崎バイオパーク長崎オランダ村ハウステンボスを生み出し観光県・長崎に貴重な財産を残した方である。関係者から多くの痛む声が聞かれた。

 

私は年間パスポート会員として、連れ合いと一緒にいつもハウステンボスを利用し、楽しませていただいている。この素晴らしいハウステンボスに来るたびにハウステンボスがどのように誕生したのか、創業者の発想がどうして生まれたのか不思議に思っていた。創業者の訃報を知り、遅くなったが創業者が書いた著書「ハウステンボスの挑戦」を読んだ。

 

 

ハウステンボスがある西彼町は神近氏の故郷である。神近氏は1942年長崎県生まれで、1962年西彼町役場に就職した。在職中に、東京の高級料亭が西彼町で計画していた観光事業の推進を担当した。しかし、その観光事業は出資者である料亭の事業悪化のため頓挫した。その時の縁で、1972年役場を退職し、東京の高級料亭の再建に尽力することになった。全く初めての仕事であったが、最初からプロはいないという思いで料亭の再建という試練の中に身を置き、泥にまみれてビジネス修行に励み多くのことを学び、またその中で、多くの人脈を得ることになった。

 

1983年(昭和58年)に神近氏は独立するため、東京の会社を退職し、長崎に戻り長年夢に描いていた「自然と人間の調和」をテーマにした「長崎オランダ村」をオープンさせた。

 

1979年(昭和54年)夏、神近氏はヨーロッパを訪れ、地中海クルージングを楽しんだ。長崎オランダ村の端緒につながる出来事を神近氏は著書に記している。

『南フランスの海を世界中の人々が楽しんでいた。クルーザーは日差しを浴びながら地中海を走る。海に面した丘にはシックな建物が調和し、帆を膨らませた無数のヨットが行き交っている。デッキから地中海の景色を眺めながら至福の時を過ごすことができた。人々の陽に焼けた笑顔は、働き続けてきた日本人に生活を楽しむ方法を教えてくれているようであった。フランス人の船長が「地中海は素晴らしいだろう」と得意気に話しかけてきた。「日本にもこんな素晴らしい海がありますか?」というので「ありますとも。私の生まれた長崎には美しい大村湾があります。この地中海にも負けません」「そんないいところがあるのですか?じゃあ、多くの人がやってくるでしょうね。」「いいえ、そんなに人は来ません」「そんないいところなのに、なぜ多くの人が行かないのですか?」「人に知られていないし、環境が整備されていません。それに日本人は働くだけで楽しみ方を知らないからかもしれません」「どうしてですか?」船長は不思議そうに問いかけてきたが、私には答えられなかった。

また、オランダ人クルーが言った。「江戸時代、日本は長崎に出島をつくり、貿易特権をオランダに与えた。そして、近代文明がオランダ人によって日本にもたらされた。日本とオランダは過去の歴史で長い友好の絆を築いた。しかし、このまま時間が過ぎていくと、我々の子供たちは日本とオランダの歴史的な関係を忘れてしまうだろう。」という話しをした。

話を聞きながら、私の脳裏に帆船の浮かんだ地中海と大村湾がオーバーラップして、現代の出島を大村湾につくりたいという思いが湧き出した。愛する大村湾の一角に現代の出島をつくろう。こうして私の一生を賭けた仕事がスタートした。』と書かれている。

 

1983年、自然豊かな大村湾の一帯に「自然と人間の調和」をテーマにした現代の出島として「長崎オランダ村」をオープンさせた。長崎オランダ村は250年以上続いたオランダとの交流の歴史を世界で唯一、後世に伝えることができる施設である。現代の出島とするためには正真正銘の本物でないと出島にならない。日蘭交流の原点となるオランダ村博物館にはにはオランダ側から多くの貴重な文化財が貸与された。また、長崎に入港した800隻のオランダ船をシンボルとするため本物の実物大のオランダ船プリンス・ウイレム号をオランダの造船所に発注した。街並みを含めて本物志向のテーマパークを故郷の地につくった。開業資金28億5千万円の融資を日本興業銀行に依頼して厳しい審査を受けた。日本興業銀行の審査結果には「オランダ村に類似する企業は日本にひとつもない。オランダ村は新しい分野の産業であり、新しい分野への挑戦である。よって日本興業銀行長崎オランダ村事業をバックアップする」と書かれていた。

 

長崎オランダ村は順調に業績を伸ばしていく中で、近隣の道路渋滞などの問題が発生していた。そのような時、近くの工業団地を駐車場に使って欲しいという県からの依頼があった。工業団地を視察すると、そこは50万坪に及ぶ大臨海工業団地である。草も木も生えていない赤茶けた土地がどこまでも続いている。そこは駐車場より、未来都市「ハウステンボス」をつくる絶好の地ではないかと考えた。

知事に面会した。「工業団地に未来都市「ハウステンボス」を創ります。長崎県は日本の西端に位置しています。アジアを考えるとき、長崎は一番近い場所にあり、将来の中国をにらんだ事業展開は必ず成功すると信じています。さらに、これからは日本人も衣食住を求めることに加えて、生活を楽しむ方向へ進むでしょう。余暇マーケットは年々大きくなり、日本の基幹産業の仲間入りをするでしょう。西暦2000年にはアジアの観光拠点都市を目指します。」と説明した。

「ほんとうにそんな街ができるの?お金はどのくらいかかるんですか?」「5000億円くらいかかると思います。」「何年かかりますか?」「10年くらいかかかると思いますが、5年くらいで一部オープンすることは可能です。」「すごいなぁ。ぜひ実現してください。県としても、できだけのことはします。」

と知事とのやりとりが書かれている。

 

1992年、東京ディズニーランドの2倍の敷地を持つ未来都市「ハウステンボス」をオープンした。

ハウステンボス」は「長崎オランダ村」のオランダとの交流の歴史を元に「自然との共生」というテーマを引き継ぎながら、豊かさと楽しさを内包した未来都市を実現したものである。

なぜ街全体をオランダそのもにするのかという疑問について、

平安時代平安京平城京と同じです。奈良や京都は1200年前に中国の長安の都をモデルにつくられた。そして1000年という時をかけて日本人の知恵と技術で工夫されて現在の日本の京都、奈良になった。ハウステンボスは、素晴らしいと思うオランダの街をモデルにしました。オランダのベースの上に日本人の知恵と技術を組み込んだ街をこれからを作っていけばよい。そこに住む人たちによって新しい文化が生まれ生活に応じて街が変化する。世代交代を繰り返しながら千年の時を刻んでいき日本、アジアを代表する街に成長していってもらいたい」と語っている。

 

現在の日本は大都市部に人口が集中し、自然が豊かな故郷はおじいちゃんおばあちゃんだけが住むところになりつつある。人が住むためには質の高い都市機能とよい職場が必要である。ハウステンボスは豊かな自然と共生しながら都市機能をアメニティー施設として観光客に提供しながら、同時に住民もそこで生活するという未来都市の機能を実験している場である。神近氏の存命中には1万人が住む街には実現できなかったが、今後の発展を期待したい。

 

神近氏の訃報を知った方が長崎新聞の読者欄に追悼文を投稿されていた。その方は大手ゼネコンの設計士で当時、神近氏から事業の説明を聞いた方であった。神近氏は多くの設計士を前に情熱を込め、真剣にハウステンボスの構築の概念を熱く語ってくれた。そして、神近氏の話を聞いているうちにこのプロジェクトの一端を担いたいという気になった。神近氏は人を釣り上げる名人だった」と語っていた。

5000億円の事業を創造するには多くの人をその気にさせないとできはしない。情熱に溢れた信念の人であったと思う。惜しい人を亡くしたと改めて思う。氏のご冥福を祈りたい