ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「評伝 孫基禎」を読む その2

「評伝 孫基禎」の中には、氏の誕生から亡くなるまでの様々な出来事やエピソードが書かれてあった。読みながら考えさせられたことも多くあった。そのいくつかを記す。

 

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左:ベルリン五輪 孫基禎等の表彰式                   右: メキシコ五輪トミー・スミス等の表彰式

1936年ベルリン五輪での孫基禎と南昇竜の失意の表彰式は、後のオリンピックに大きな影響を与えることとなった。1968年に行われたメキシコ五輪の二百メートル走の表彰式でとったアメリカ人選手、トミー・スミスとジョン・カルロスの行動である。トミー・スミスとジョン・カルロスはアメリカに黒人差別が歴然として存在していることを主張するため、表彰式の場で黒手袋をはめ、こぶしを頭上に掲げ、顔を上げず、国旗を見上げなかった。これは孫基禎、南昇竜のベルリンの表彰式の態度を参考にしたものであると、後にジョン・カルロスが語っている。

 

 

ベルリンオリンピック後、孫基禎は将来スポーツの指導者になりたいと考え高麗大学に入学した。しかし、入学した途端、事件が勃発した。高麗大学の学生団体が企画した新入生歓迎会に警察が踏み込んできた。朝鮮独立のための秘密集会を開いたという容疑であった。孫基禎は警察で訊問を受けた。釈放される時「これからは人の集まりに顔を出すんじゃないぞ」と厳しく恫喝された。

 

ソウルではみんなに迷惑をかけることから、日本の大学に進学することを考えた。しかし、日本の大学に入学願書を提出しても危険人物という手配が回っていて受験を拒否された。困り果てた孫基禎に救いの手を差し伸べたのは明治大学であった。明治大学に入学が許可された孫基禎に日本政府は入学条件を提示した。「ふたたび陸上をやらないこと。人の集まりに顔をださないこと。できる限り静かにしていること。」1940年3月、明治大学法学部を卒業してソウルに帰国した。

 

1941年、太平洋戦争に突入した日本は、軍事色を強めていった。「内鮮一体」の美名のもと、日本支配がますます強められた。創氏改名で本名を奪い、日本姓が強要された。さらにハングルに使用を禁止して言語を奪った。

さらに、朝鮮総督府は戦場にに赴く兵士の確保に奔走した。学徒兵募集は朝鮮の名士を利用して行われた。孫基禎の名声は特に重用され、孫基禎は日本の憲兵隊によって朝鮮じゅうの旧制中学校に派遣され学徒兵募集の演説を強要された。「皇国のために生命を捧げることは、男子一生の栄光である」という言葉で若い旧制中学生に呼びかけた。晩年、孫基禎は、この演説が私の人生で最も悔いの残ることであったと述懐している。

 

孫基禎ベルリンオリンピック日本選手団の中に入っても日本選手や指導者から差別的扱いを受けたりしたが、陸上競技田島直人、村社講平、主将の大島鎌吉選手らとは交流を続け、その友情は生涯続いた。大島鎌吉主将については次のエピソードを語っている。

ベルリンオリンピックの開会式には大島鎌吉主将を旗手にして入場行進するが、事前に背の低いものから順番に並んで行進することが決められていた。数が少ない女子選手やマラソン選手として背の低い孫基禎も前の方に並んだ。この様子を見ていた馬術選手の陸軍軍人がこの行進方法に異を唱えた。「帝国陸軍軍人が朝鮮人や女の後ろを行進できるか!」その言葉は孫基禎に投げつけられた言葉であった。選手団主将の大島鎌吉が現れて、軍人に向けて言い放った。「ここはオリンピックの場である。陸軍軍人も朝鮮人もあるか!選手団として決めたことを守ってきちっと並べ!」大島と陸軍軍人のやりとりを聞いていた孫基禎は「差別に真剣に怒り、その差別を憎み、人間の尊厳を守ってくれたすごい人だ」と感激した。これを契機に孫基禎の大島への人間的信頼は深まり、一生涯、人生の兄として尊敬し行動を共にすることになった。

 

孫基禎は、その長い人生の中でスポーツの価値とは何かということを考え続けた。究極においてそれは「スポーツマン相互の尊敬、信頼、友情」にあると確信した。

 

孫基禎朝鮮戦争後、オリンピック精神である「スポーツを通じた相互理解・友好連帯」の促進に取り組み、大韓陸上連盟会長、大韓オリンピック委員会常任理事などを歴任し、1988年 ソウルオリンピックの開催、1991年 プロ野球日韓交流開催、2002年 日韓共催サッカーW杯開催、など多くのスポーツ事業において、韓国スポーツ会を牽引した。

 

韓国が日本から独立したあと本人と韓国五輪委員会がJOCなど日本のオリンピック関係機関に孫基禎の金メダルを韓国のものとしてカウントしてほしいと再三お願いしたが、JOCは断固として日本のものだと主張して譲らなかった。

孫基禎サッカーワールドカップの成功を見届けて2002年11月15日静かにその人生を閉じた。

 

2002年12月21日、明治大学1011教室で「偲ぶ会」が催された。岡野加穂留前学長は開会の挨拶の中で「孫基禎さんは世界的なスポーツマンで、韓国の国民的英雄であった。戦前の日本の全体主義のもと、想像を絶する苦しみを味わいながらも、絶対に希望を失わなかった。スポーツによる国際相互理解を希求するオリンピック精神を体現した人物であった。国際的名声を轟かせた人物であった。明治大学の誉れである。明治大学は、孫基禎の人生を語り続ける義務がある」と述べられた。

 

 

「評伝 孫基禎」を読んで、改めてオリンピックを開催する意義は何かということを考えた。それは孫基禎が述べたように、オリンピックは「スポーツによる青年の教育であり、相互理解、友好連帯を促進する平和運動」である。

孫基禎が自分の体験をもとに発言した「スポーツマンは平和の問題に関心を持ち、平和な社会の構築に参加すべし」という発言を忘れまいと思う。