ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

韓国時代劇ドラマ「ホジュン」を見た

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韓国時代劇ドラマ「ホジュン」が終わった。68回にわたって放映された番組が10月末で完了した。

ホジュン」を見るのは初めてではない。以前見たことがあったが、BSで放送されることを知りもう一度見た。

 

見終わって、今回も感動した。

 

ホジュンのあらすじは簡単に書くと以下の通りである。

「身分の低い側室の母から生まれた軍官の庶子ジュンは、過ちを犯して捕まるが、父の配慮で遥か南の地・山陰(サヌム)へと逃げることになった。山陰で名医として名高いユ・ウイテを知り、かれに弟子入りを志願する。厳しい師の下で懸命に学びながら「心医」を目指して邁進していくが、その道は険しく様々な苦難に満ちていた・・」

 

ホジュンを見て心を打つことは、彼が貧しい身分から宮廷医官に上り、さらに王様の主治医まで栄達したことではない。彼は王様の主治医を辞退して、地方に住み民衆への治療を続け、病に苦しむ民衆を救うための医学書編纂に取り組みんだことである。私はこの作品を見て、彼が師匠から学んだ患者を慈しむ「心医」の道を最後まで貫き通したことに深い感動を覚えた。

 

このドラマの主人公である許浚ホ・ジュン)は実在の人物である。生まれは1539年。祖父や父は武官という両班の一族生まれだが、ドラマ同様に正妻の子ではない庶子だったため、母親の名は定かではない。ドラマ同様、様々な険しい道を歩みながら、朝鮮王朝の第14代王・宣祖(ソンジョ)の主治医となった。

 

ホジュン(許浚)が朝鮮独自の医学書の編纂に取り組んだのは1596年である。当時の朝鮮では中国の明(みん)医学が主流で、明から輸入される漢方が多用されていたが、1592年に勃発した壬辰倭乱(イムジンウェラン=文禄の役)などで国内情勢は不安定になり、明医学の薬の輸入が難しくなっていた。また、明医学では朝鮮半島の環境や病理に適さない部分もあり、朝鮮独自の医療の必要性を迫られていたこともあって、ホジュン(許浚)は朝鮮独自の医学書の編纂に取り組み、15年の歳月をかけて1610年に全25巻の『東医宝鑑』を完成させた。

 

東医宝鑑』は中国の古今の医書を再編集しつつ、朝鮮独自の医学も盛り込まれた医学百科事典のようなものである。症状や薬材ごとに処方や効能が記されており、庶民でもわかりやすく作られていることが高く評価されている。中国やヨーロッパでも翻訳され、日本では徳川吉宗も目を通したと言われている。

 

ちなみに1991年、韓国と北朝鮮非武装中立地帯でホジュン(許浚)の墓が発見された。また、ホジュン(許浚)が出生したとされるソウル市にはその功績や韓医学を学べる『許浚博物館』がある。

 

第135話最終回、ホジュンを慕っていた女性医イエジンが、亡くなったホジュンのお墓詣りをする場面で物語は終わる。

付き添いの女児がイエジンに尋ねる。

「イェジン様、誰のお墓ですか?」

「私が、ずっとお慕いし尊敬していた方よ。」

「何をしていた方ですか?」

「お医者様よ。あの方は、まるで、地中を流れる水のような方だった。太陽の下で、名を馳せるのはたやすいわ。難しいのは人知れず地中を流れ人々の心を潤すことよ。それができる方だった。心から患者を慈しむ心医でいらしたの。」

 

「イェジン様、その方はイェジン様を愛していたんですか?」

「それはわからないわ。私が死んで地にかえり、水になって再会したら、その時に、ぜひ尋ねてみたいわ。」

 

「太陽の下で、名を馳せるのはたやすいわ。難しいのは人知れず地中を流れ人々の心を潤すことよ。それができる方だった」

ホジュンは男性からも女性からも尊敬し、愛される人であった。

 

 

追記

ホジュンを演じた名俳優キム・ジュヒョクさんの死から3年を迎え、今なお追慕が続いている。

キム・ジュヒョクさんは2017年10月30日、ソウル三成洞(サムソンドン)の高速道路で、車両が横転する不慮の事故で死亡した。45歳であった。キム・ジュヒョクさんに会いたくてホジュンを見たのかもしれない。今なお、彼の早すぎる死を悲しみ悔やむ。