ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「追跡! 佐世保小六女児同級生殺害事件」を読む

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地元の図書館で「追跡! 佐世保小六女児同級生殺害事件」というタイトルの本を見つけた。このタイトルを見て、あの時の衝撃を思い出した。そして、あの時思った「どうしてこんなことが起こるのだ!」「なぜだ?」という強い疑問を持ちながらも、新聞報道以上のことはわからず、長い間私の心の中にこの事件に対する疑問が澱みたいに沈殿して残っていた。この本を読むと事件を思い出すので気が重いが、長年のモヤモヤした思いを払拭したいという思いで読むことにした。

 

佐世保小6女児同級生殺害事件というのは、2004年6月1日午後0時21分、長崎県佐世保市の大久保小学校で、同小六年生の御手洗怜美さん(12歳)が、校舎3階にあった学習ルームで同級生の女児A子(11歳)に首などを切られ出血多量で死亡した事件である。事件が起きた大久保小学校は一学年1クラスずつの小規模校である。被害者の怜美さんは午前中の授業が終わった後、加害女児A子に呼び出され、二人で学習ルームに入った。A子は部屋のカーテンを閉め、怜美さんに手で目隠しをし、背後からカッターナイフで切りつけ殺害した事件である。

 

この本の著者は元法務省東京少年鑑別所法務教官草薙厚子さんである。草薙さんがこの本を書くきっかけは、この事件に衝撃を受けたのはもちろんだが、事件の翌日に発表された佐世保児童相談所の記者会見での発言に対する違和感である。記者会見の中で「加害者はごく“普通の子”で、ごく普通の家庭に育てられ・・・・・」という発言を聞き、草薙さんは“普通の子”という言葉に強く違和感を持った。児童相談所は一体何を根拠に、“普通の子”というのだろうか?なぜ、これほど残虐な殺人事件を引き起こした加害女児が“特殊”でも“異常”でも“例外”でもない“普通の子”になってしまうのだろうか?という疑問である。また、草薙さんは今までの就業経験から、少女の家庭環境が気になった。なぜなら、この種の少年事件では犯行の要因が家庭環境に認められたり、加害者が事前に家庭でなんらかの兆候を示しているケースが少なくなかったからである。そして、二度とこのような事件が起こらないようにするために真相を明らかにしていく必要があると考えて取材を始めた。

 

A子は収監された施設が行った精神医療機関による鑑定によって広汎性発達障害の一種である“アスペルガー症候群”と判定された。施設での観察においてもアスペルガー症候群の特徴である“対人関係の作り方に不得手さ”が顕著に見られたという。

 

事件後、A子と接して精神鑑定を行った医師の証言では、「アスペルガー症候群でも病気とは診断されず“少し変わった人”“個性的な人”と認識されながら社会に適応していく人も多い。ところが、A子は殺人事件を起こしてしまった。これは極端なケースというべきです。事件の要因は複合的なものだということを忘れてはいけないが、A子と両親との希薄な関係について、両親がしっかりと教育に責任を持っていたら事件を防げた可能性は高い。医師はA子の成長過程に問題があった」と指摘している。「乳幼児期にボディタッチなど愛着行動が満たされていなかった。それは与える親側、受け取る本人側、双方の問題だったかもしれない。どんな人間も愛着行動に満足することによって、それを土台にして社会化され、豊かなコミュニケーション能力が育まれていく。愛着行動は人間が発達していく最初の過程のきわめて重要なキーワードです。A子の場合も、両親が感情レベルと情緒レベルでちゃんと包み込んであげていればあのような事件は起こらなかったかもしれない。そのことを親がわかっていなかった点が問題です。あるいは愛情はあったのかもしれないが、その使い方が結果として違っていたようです」と述べている

 

児童青年精神医学の専門家は次のように述べている

発達障害の一つであるアスペルガー症候群を持つ人間は、相手の感情を理解して臨機応変に対応することができず、決まったマニュアルに沿って行動することを好む傾向がある。必ずしも知的障害を伴わないのもアスペルガー症候群の特徴である。全国の小中学生の6%に発達障害の可能性があると言われている。「アスペルガー症候群の子どもは犯罪者になりやすい」「A子は病気だから事件を起こした」といった短絡的な思考は危険であり明らかな間違いである。アスペルガー症候群はあくまでも事件の間接的、副次的要因である。しかし、だからといって、A子がアスペルガー症候群という事実からも目を背けてはならない。」

 

 

アスペルガー症候群対策として大切なことは、早期発見による幼児期からの適切な教育です。その点からすると、A子の両親が、A子が示したさまざまな社会的に不適応な症状に気づいていなかったことが大きな問題であった。両親がA子に暴力を振るわずに正しい躾を行なっていたら、たとえ相手に憎しみを抱いたとしても、実際に殺人を実行することはなかったはずです。一人で自宅にいることが多かったため、暴力的なテレビやビデオが見たい放題だったことも災いしていると思います。暴力による被害体験もあり、学校でも自分の暴力的なふるまいが原因で周囲から孤立してしまい、休み時間にひとりぼっちでいることが多かった。いじめられていたわけではないので、疎外されているように見えなかったのですが、コミュニケーションをうまくとれないという不適応な状態が、A子の中ではおこっていたのです。」

 

「再度強調しておかねばならないのは、発達障害があるから犯罪に走るのではないということです。先天性のアスペルガー症候群は周囲の指導によって克服が可能なものです。子どもが特異な資質を持っていることを見抜き、それを親や関係者が正しく認識し、適切に対応しながら成長を支援していけば、発達障害の児童もなんの問題もなく、社会に適応することができます。」

 

精神医学の専門家を始め多くの人々への取材を終えて、著者の草薙さんは言う

「A子にとって不幸だったのは、彼女が持っていた先天的なハンディーキャップを周囲のおとなたちが誰も気づかなかったことである。毎日接している家族も担任教師も、彼女が抱える心の闇を見過ごし、彼女は“普通の子”として毎日を過ごすことになってしまった。

一学年1クラスの濃密な人間関係にあって、彼女のコミュニケーション能力は次第に機能しなくなり、友人関係への適応能力も日増しに危うくなっていった。なのに、誰もA子の心の闇に光を当てることはできず、彼女は善悪の判断も持てぬまま、とうとう運命の日を迎えてしまったのである。

 

先天的な疾患を抱えていたA子は、いわばこの世に生を受けた瞬間から、周囲にむかってSOS を送り続けていたといってもいい。だが、それは無視され続けた。最初に見逃したのは両親だった。幼い彼女が示したコミュニケーション能力欠如の兆しは、逆に両親からは手のかからない子どもと受け取られ不幸にも見過ごされることになった。両親も、同居していた祖母も姉も助けにはならず、A子は心の闇を硬い殻で被ったまま成長した。そんな彼女が抱えている重荷を、学校関係者もまた見抜くことはできなかった。彼女はここでも、まじめな“普通の子”として存在した。しかし、それは擬態にすぎなかった。彼女の社会に対する不適応症状は学年が上がるにしたがって様々な要因が加味され肥大化し、クラスメートたちとのズレはいつしか臨界点に達しつつあった。その証拠に、事件の1ヶ月前から彼女が示すようになったカッターナイフを振り回すなどの急激な暴力的行為の傾斜は禍々しいまでに事件の予兆に満ちていた。だが、その切実すぎるSOSのサインは、またしても周囲から見過ごされてしまった。

 

そして、いざ事件が起こると周囲の人間は動転した。誰もが事件について口をつぐみ、自己保身に走った。少年法の壁と、関係者の沈黙という二重の障壁によって、事件の真相は闇に包まれ、遺族にさえも正確な情報は伝えられず、A子は“普通の子”だというきわめて表層的な情報だけが闊歩していった。その結果、佐世保女児殺害事件はいまだに“ごく普通の子が起こした事件“として世間に認識されてしまっている。だが、実際はそうではなかった。周囲の無理解と無関心が彼女を“普通の子”のように見せかけていたといったほうが正確だったのだ。

自戒を込めて言えば、私たち大人は、子どもが発するシグナルに反応するアンテナが錆びついてしまっているのかもしれない」と述べている。

 

この本を読んで、なぜ、この事件が起こったのかが少しわかったような気がした。この事件を振り返るとき、何の落ち度もないのに殺害された御手洗怜美さんの無念さとその遺族の悲しみ、苦しみを思うと胸が張り裂けるような思いになる。そのことは、同時に加害者A子に対して決して許せない思いと憎しみさえも感じる。

しかし、この本を読んで、A子もまた被害者ではなかったかとも思う。大人がA子の心の病に気づき手当てをしていたら、この事件は防ぐことができたと精神医学の専門家は言う。A子が生まれて以来11年間、発し続けたSOSを周りの大人が誰一人気づけなかったことの責任は重い。錆び付いたアンテナで子どもに接して、こどもが発するシグナルをキャッチすることができず、そのために、みすみす殺人者を作り出してしまった大人の責任を痛感する。

愛する子どもの命を奪られるという、この凄惨すぎる事件から得た貴重な教訓を私たち社会は決して忘れないように、そして、今後に生かさねばと思う。