ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「よく生き よく笑い よき死と出会う」読む

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この本は、今年9月に亡くなられたアルフォンス・デーケンさんの著書である。アルフォンス・デーケンさんは哲学者で、長く上智大学で教鞭を取り文学部人間学研究室で「死の哲学」、「死生学」、「人間学」などの講座を持ち、「死への準備教育」においては、日本における代表的な学者である。1982年に「生と死を考える会」を発足し、終末医療の改善やホスピス運動の発展などに尽力された方である。この著書は2003年1月25日の「最終講義」をまとめたものである。

 

デーケンさんは「死生学」を生涯の仕事としてきた。「死生学」は、死に関わりのあるテーマに対して、総合的に取り組む学問である。

『長い人生において、最大の試練は死に直面することです。ドイツの哲学者ハイデガーが定義したように、人間は皆「死への存在」であり、この世に生を受けた瞬間から、死に向かって歩き続ける旅人です。

日本では戦後長らく「死」をタブー視する風潮が強く、そのための教育は全く存在しませんでした。しかし、「死生学」によって「死」について学んでいれば、同時に生きることの尊さも発見できます。長年、上智大学で「死の哲学」の講座を担当してきましたが、死に対する学生たち積極的な関心は驚くべきものがあります。

死は誰にでも確実に訪れます。人間の死亡率は百パーセントです。もし「死」という次元をないがしろにするなら、今日の人生、今ここに生きている人間を真に理解することも不可能ということになります。死とは将来起こる問題ではなく、今日直視しなければならない重要な課題なのです。』と語っている

 

私は今年71歳となった。ついさっき70歳になったと思ったらもう71歳である。時の過ぎるのが驚くほど速い。何か時間に急かされているような、時間に追われているような妙な気分が心の中にある。そのような中、豊かな老いを生きるためにどうすべきかを考えているときに、新聞でデーケンさんの記事を読み、アルフォンス・デーケンさんの本を読みたいと思った。

 

デーケンさんは人間には三つの年齢があると言っている。それは生活年齢、生理年齢、心理年齢である。

生活年齢は、誕生日が来れば必ず一つ歳をとる暦の上の年齢で誰にでも平等に訪れる年齢である。生活年齢は変えることができない。

生理年齢はその人の健康状態によって変わる年齢である。健康管理を大切にしている人は歳をとっても元気である。しかし、若い時から飲み過ぎ食べすぎ、運動不足など不規則な生活をしていた人は早く老ける。つまり、生理年齢はある程度コントロール可能である。

心理年齢は人間にとって、もっとも大切な年齢である。心理年齢は自分の気の持ちようや心がけ次第で、生活年齢や生理年齢とは無関係に、いつまでも若さを保つことができる。心理年齢こそは、自分で選択できる年齢である。生活年齢は八十歳九十歳でも、心の中は青年の若々しさにあふれている人がいる。豊かな老いを生きるためには、いつまでも未来に向けた開かれた心を持つ心理年齢の若さが大切である。青年のような若々しさに溢れた人生の大先達の生き方に学びながら自分なりの人生を歩んでいきましょうと豊かな老いのために心理年齢の重要性を強調している。

 

「死」という言葉に対して、多くの人はまず、「肉体的な死」を考えるがデーケンさんは「死」を、四つの側面に区別している。

一番目は「心理的な死」、二番目は「社会的な死」、三番目は「文化的な死」、そして四番目が「肉体的な死」である。

一番目の「心理的な死」というのは、例えば老人ホームなどで、生きる喜びを失ってしまった人は肉体的に健康でも心理的な面では死を迎えたような状態だということである。

二番目の「社会的な死」というのは、社会との接点が失われて外部とのコミュニケーションが途絶えてしまった状態である。老人ホームでも一人きり、子供も友達も、誰も見舞いに来てくれないという状態に陥ったら、「社会的な死」と言える。

三番目の「文化的な死」とは、生活する環境に一切の文化的な潤いがなくなることである。現在の多くの病院や老人ホームの環境は、文化的な潤いがあるとは言い難いところも多い。患者の心に対する配慮が欠けた病院では患者は「肉体的な死」を迎える前に「文化的な死」を体験させられることになる。

二十世紀の日本は、医療技術の飛躍的な進歩におかげで平均寿命が世界一になった。これからの新しい挑戦としては、肉体的な面での死との戦いだけでなく、心理的な面での延命、社会的な面での延命、文化的な面での延命を合わせた相対的延命を図ることが大切なテーマになるとデーケンさんは述べていた。

 

デーケンさんはホスピスについても語っていた。

ホスピス運動とは、施設を指すものではなく、主に末期ガン患者を対象として、最後まで精一杯生きることを目的とした総合的ケアプログラムを提供しよとする理念です。

ホスピスという言葉を「死の家」とか「死に場所」という意味に理解するのは大きな誤解です。患者は死ぬためではなく、残された時間を充実して生きるためにホスピスに入るのです。

ニューヨークのカルヴァリー病院はニューヨークで一番古いホスピスです。この病院の患者はニューヨークの他の病院から転院を希望して移ってきた末期ガン患者で50%は4週間以内、残りの50%は6週間以内に亡くなると言われています。しかし、この7階建て二百床のホスピスは、決して暗い死の家ではありません。人生最後の数週間、患者が痛みや死の恐怖から解放され、温かい家庭的な雰囲気に包まれて、深い精神的な充足を味わいながら過ごし、尊厳を持ってこの世を去ることができるように患者、家族、スタッフ、の相互協力によって、他の病院よりもずっと明るい、愛のコミュニティーが営まれている場所なのです。そこでは、肉体的な死を迎える前に「心理的な死」も「社会的な死」も「文化的な死」を迎えることはありません。』

 

デーケンさんはこの本の中で、『ギリシャ語では、時間の概念を「クロノス」と「カイロス」に区別します。「クロノス」は河の流れのように過ぎ去っていくいく日常的な時間のことですが、「カイロス」は二度と来ない決定的な瞬間を言います。時間の貴重さを意識して、「カイロス」という唯一の機会をしっかりつかむことができれば、人間として大きく成長することが可能です。「死への準備教育」とは、「人間らしい死を迎えるにはどうすべきか」に関する教育で、死を見つめることは、生を最後までどう大切に生き抜くか、自分の生き方を問い直すことである』と語っている。

 

デーケンさんの著書を読み終えて、「人間の一生は旅の連続で、今日の出会いは明日の別れが伴っている。同じように見えても今日という日は二度と巡って来ない。まさに一瞬一瞬を「カイロス」として生きていくべき」という言葉をかみしめている。

ここでゆっくりと自分の生き方を見つめ直す機会をいただけたことに感謝したい気持ちである。71歳からの旅立ちにおいて良い書に出会ったと思う。