ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「死生学」とユーモア

アルフォンス・デーケンさんの著書「よく生き よく笑い、よき死と出会う」を読んで心に残ることがたくさんあった。その中で、私にとってこれからの大きな課題と感じたことが一つあった。それは「よく笑い」というテーマである。

デーケン先生は「死とユーモアは、とても深い関係があります。不思議に思われるかもしれませんが生きることと死ぬことが表裏一体の関係であるように、私たちが人間らしく、より良く生きていくためにはユーモアは不可欠です。死について学び、自分なりの死生観を身につけるためにも、ユーモア感覚がとても大切です』と語っている。

 

ユーモアとジョークについて

「日本ではユーモアとジョークを同じ意味で使う人が多いが、私ははっきり区別します。ジョークは頭のレベルの技術です。お笑い芸人の振りまく笑いはほとんどがジョークと言えます。言葉の上手な使い方やタイミングの良さで笑わせようというジョークは、ハウツーで学ぶこともできますが、当てこすりやきついジョークは使うべきではありません。ユーモアは、心と心のふれあいから生まれます。相手に対する思いやりが、ユーモアの原点です。私たちが、相手に対して思いやりや愛を示したいなら、相手が何を期待するか、何を希望するかを考えることが出発点になります。皆が期待するのは、ストレスの少ない温かい家庭や社会の環境ではないでしょうか。私たちは思いやりに満ちたユーモアによって、どんなところでも和やかな雰囲気を作り出せると思います。私は人生の潤滑油としてのユーモアの役割をもう一度、すべての人に見直してほしいと考えます。」

 

動物的な真面目さについて

「ドイツ語では、真面目すぎる人を表現するのに「動物的な真面目さ(tierisher  Ernstティアリッシャーエルンスト)」と言います。真面目一方でコチコチの人は、ユーモアに乏しくてほとんど笑わないところが、まるで動物のようだという意味で使われます。これを言い換えれば、人はユーモアがあればあるほど、人間らしく生きられるということです。」

 

ユーモアの定義について

ドイツで有名なユーモアの定義は『ユーモアとは「にもかかわらず」笑うことである』と言います。「自分は苦しんでいます。しかし、それ「にもかかわらず」、相手に対する思いやりとして笑顔を示します」という意味です。これが、真に深みのあるユーモアだと思います。

 

自己風刺について

ユーモアには、そよ風のように、周囲の人たちをやさしい笑顔で包む働きがあります。それでは、愛と思いやりから生まれるユーモアの話題にはどのような内容がふさわしいでしょうか。それは自己風刺が一番ぴったりだと思います。真に内的な自由を獲得した人だけが、自分の失敗や弱点を客観視しておおらかに自分自身を笑うことができます。つまり成熟した人間にとって。笑いの対象はいつも自分なのです。

 

古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「私は、自分が何も知らないということを知っている」「自分のことを賢いと思っている人は、実は愚かなのだ」と言っています。どちらも自分を例にとって、人間の愚かさを風刺している好例です。自分の欠点や至らなさ、勘違いなどを素直にみとめて、それを相手と一緒に笑うことが、自己風刺のユーモアの真髄なのです。

 

 

デーケン先生は「笑い」の必要性を強調されているが、私はドイツ語の「動物的な真面目さ」を持った人間でユーモアのセンスが全くない。人を笑わせるということが苦手である。口下手で社交性に欠ける。それに顔が柔和の反対の怖い顔をしている。そしてなによりも性格的に冷たいなど笑いの要素に欠ける人間である。デーケン先生の笑いが重要ということは理解できたが、動物的真面目さ満載の私にとって、その実践はなかなか難しい大きな課題である。しかし、豊かな老いを迎えるために何としても改善すべき点は改善しながら進みたいと思う。

 

デーケン先生はこの本の中で「自分の失敗を笑い飛ばそう」と言っている。それに習って若い時の失敗を一つ記してみたい。

「自分のことを賢いと思っている人は、実は愚かなのだ」とソクラテスは言ったが、私は50年以上前の若い時分に、知り合いの女性から同じようなことを言われたことがある。

私は、女性から「あなたは馬鹿よ。大馬鹿よ」と言われた。今となってはどのようないきさつで言われたのかその中身は覚えていないが、多分、私が小賢しい口をきいたことに対して、彼女はその本質を見抜き私に投げかけた言葉のように思う。私は反論出来ず黙り込んだ事だけ覚えている。

 

このような尊大で小心な私だったから周囲に笑顔を振りまくことができなかったのだと思う。それから50年以上経ち少しは成長したと思うが、今もユーモアに欠けるのはまだまだ不十分なままここまできたのだと思う。50年以上前の彼女の批判をしっかり心に受け止めて、笑顔を振りまく、笑顔に満ちた豊かな老いを迎えることができるようにこれからさらに成長していきたいと思う。