ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

二つの政治評論を読む

日本の現在の政治に対する評論を二つ読んだ。一つは上智大学の中野晃一教授、一つは同志社大学の浜矩子教授によって書かれたものである。

 

中野教授は、安倍・菅政権の8年間を踏まえ「国家の形骸化を止めろ」という題で、以下のように書かれていた。

森友学園加計学園桜を見る会などそれぞれ一つだけで政権の命取りになりかねないような疑惑が解明されないまま次々と累積していった。野党がそれらの問題を追及すると、野党はスキャンダル追及ばかりすると政権与党でなく野党に対する批判が一部マスコミや世論から起こった。国会での行政監視がまるで野党の揚げ足とりであるかのようなムードさえ醸し出されるようになった。野党は政治の邪魔ばかりするなという声があがり、もう「何んでもあり」になって逃げ切れることが証明されてしまった。

 

日本の国会のお手本とされる英国議会は、公金がいかに使われているか、行政をつかさどる者が不正を働いていないかを監視することを一大事としている。このため、日本国憲法にもわざわざ第7章と章を立てて、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて、これを行使しなければならない」などさまざまな国家財政の統制に関する規定を設けている。また内閣の国会に対する説明責任を担保するため、第4章第63条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は答弁または説明のため出席を求められた時は、出席しなければならない」と定めている。

 

これに対して、自民党は2012年に「ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りではない」との一文を改正案に追加し国会に対して説明責任を果たすことに消極的な姿勢が見られる。権力の行使に夢中で、その前提となる責任には興味がない。

 

この8年間で、議会に対して首相をはじめとした内閣が説明責任を負うという議会制民主主義がその根幹から毀損されてしまった。さらに恐ろしいのはこうした異常事態に対する国民の危機感が薄らいでしまっていることである。」と現在の政治状況について警鐘を鳴らしている。

 

浜教授は現在の日本の政治家について以下のように述べている

カトリックの信仰の中に、職種別の守護の聖人の存在がある。「聖人」は、カトリック教会が与える称号で、殉教者や世のため人のために命がけで尽くした高潔なる人々が「列聖」される。

 

政治家の守護の聖人は聖トマス・モアである。トマス・モアは権力に対して敢然と立ち向かった人として知られる15世紀のイギリスの政治家である。彼は時の権力者であるヘンリー八世が国王を頂点とする英国国教会を創設しようとした時、それに断固反対した。王宮の重鎮でありながら、真っ向から国王陛下を諭し、批判して憚(はばか)らなかった。微塵の忖度も働かせなかった。その結果、反逆者として処刑された政治家である。

 

 このトマス・モアに守護されているのが政治家たちである。つまり、政治家の使命として、反権力・反強権でなければいけないということだ。異を唱える者を排除するそのような権力者に対し、ひるむことなく対峙するのが政治家である。その覚悟ある者の上に、聖トマスの加護がある。

 

 これからすると、今の日本で政府・与党を構成している人たちは、政治家ではない。カトリック教会が定めた守護の聖人の人となりと、整合するところがまるでない。聖トマス・モアの守護に値するために、従うべき「業務記述書」に全く従っていない。

 

 反権力どころか、菅首相は絶対権力を掌握することにきゅうきゅうとしている。忖度なき者は、その「王宮」から立ち退かせる。異論ある者は、強権的に公職から遠ざける。今の日本の政府・与党は、本来の政治家の集団ではない。本来の政治家が対決すべき陣営に身を置いている。彼らからは、政治家という職業名が剥奪されるべきだ。

日本の政府・与党の政治家は、聖トマスの守護対象リストには、端から含まれていない。

聖トマスが、喜んで守ってくれる本当の政治家。その出現が切迫感をもって熱望される。それが、今の日本だ。」と書いている。

 

お二人の意見に同感である。日本の政治は政治家になるべきでない人たちが政治を操っているのだから日本の状況が最悪になるのは当然だろう。そして、老人支配の自民党というのも問題のように思う。この状況を改善するために、若い人に期待したい。さらなる女性の進出に期待したい。今年をその始めの一歩にしていかねばと思う。