ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「私たちは幸せになるために生まれてきた」

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朴慶南(パクキョンナム)さんの著書「私たちは幸せになるために生まれてきた」を読んだ。パクさんはこの著書の中で、出会った人たち、体験したこと、ぜひ伝えたいことなどをつづっている。

 

この本のタイトル「私たちは幸せになるために生まれてきた」は河野義行さんとのお話の中でお聞きした「人はみんな幸せになるために生まれてきたのだと思っています。・・・」という言葉からつけさせていただきましたと書かれていた。

 

私は河野義行さんの名前は知っていた。あの松本サリン事件の第一通報者であり、松本サリン事件の被害者でありながら犯人と決め付けられるという冤罪被害を被った人である。そういう事実関係は知っていたが、河野さんの人物像とか、お人柄などは何も知らなかった。河野さんの言葉に興味を感じ、河野さんのことが書かれているページを最初に開いて読んだ。

 

松本サリン事件は、1994年6月27日午後10時40分ごろ、長野県松本市の住宅街で、オウム真理教の幹部らが猛毒のサリンをまき、8人が死亡、約600人が重軽症を負った事件である。この事件は、教団関係の訴訟を担当していた長野地裁松本支部の裁判官官舎を狙ったオウム真理教による事件であったが、当初、事件か事故かもわからず、またその原因もすぐには分からず、農薬の調合ミスによる毒ガス発生という間違った判断と第一通報者の河野さん宅にあった農薬から河野義行さんが犯人扱いされるという冤罪を生んだ事件である。

 

事件当日、河野家は近隣から流れてきたサリンガスを浴びて、妻の澄子さんは心肺停止状態となり、河野さんも重い症状で病院に運ばれそのまま入院した。その次の日、河野さんの自宅は殺人容疑で警察の強制捜査を受け、自宅にあった農薬などの薬品類が押収された。警察による記者会見が行われ、新聞、テレビは「松本の有毒ガス、調合ミスで発生 長野県警が見方固める」(朝日新聞 )、「会社員、事件の関与ほのめかす 」(信濃毎日新聞 )などと一斉に報道し、河野さんは警察とマスコミから犯人と決めつけられてしまった。河野さんを犯人扱いする報道が一気に加熱し周りに拡大していった。

 

警察による連日の取り調べで、河野さんは「犯人はお前だ」「亡くなった人に申し訳ないと思わないのか」「早く罪を認めろ」と自白を強要された。捜査本部は河野さんをこの事件の犯人とみなし、さらに隠している薬品があると判断し、長男を共犯者として捜査を進めた。まだ逮捕もされず、まだ裁判も行われていないのに、犯人にされてしまい、自宅には無言電話や嫌がらせの電話、脅迫の手紙がたくさん来た。

 

子供たちから電話番号を変えて欲しいと頼まれたが、河野さんは自分ににやましいところがないという理由で変えなかった。変えることは現実から逃げることになる。どんな電話にも真摯に対応すること。無言電話にも、きちんと断ってから電話を切るようにと子供たちに言い聞かせた。

子供たちは、無言電話には「ご用件がないなら、切らせていただきます。」と言ってから受話器を置き、嫌がらせ電話にも「よかったら、お父さんと会って話してみませんか」と誠実に対応した。

 

当時、河野さんは高校生と中学生に3人の子供さんがいた。その子供さんに「このままいくと、お父さんは死刑になることもありえる。しかし、お父さんは何もしていない。無実だ。だからお前たちはどんな時も卑屈になることはない。意地悪されたら、相手を許してやるように。意地悪する人たちよりは、いつも少し高いところに心をおいておこう」と話をした。

 

河野さんは、高校1年生だった長男に「世の中には誤認逮捕もあるし、裁判官が間違えることもある。最悪の場合、お父さんは7人を殺した犯人にされて死刑になるだろう。もし死刑執行の日が来たらお父さんは執行官たちに『あなた方は間違えました。でも許してあげます』と言うよ」と話した。

 

翌年、オウム真理教地下鉄サリン事件を起こし、サリンはオウムの犯罪ということが明らかになり河野さんの疑惑が晴れたが、それまでの1年間は河野さんにとってこれまでの人生の中でもっとも苦しい体験であり、時には死ねたらどんなに楽だろうと思ったこともあったそうだ。乗り越えて来れたのは、妻と未成年の子どもたちを守らなければという思いと誰がなんと言おうと自分は河野を信じると言ってくれた人がいたからこそ、河野さんは踏ん張れたと言う。

 

さらに、河野さんは教団関係者の見舞いも受け入れた。松本サリン事件で懲役10年の刑を受けた元教団関係者の受刑者が出所後、直接謝りたいと訪ねてきた。河野さんはそれを受け入れた。それ以来、友人関係を続けている。また、地下鉄サリン事件の死刑囚が河野さんの奥様が未だ意識不明と言うことを知って「意識不明の人とコンタクトをとる」という本を河野さんに送ってくれた。河野さんはそのお礼のため刑務所を訪ね交流を続けた。それを縁にしてオウムの犯罪で刑に服しているほかの人たちへの面会と差し入れのため何度も東京拘置所に足を運んだという。

 

オウム真理教による松本サリン事件によって筆舌に尽くせないほどの苦しみを受けたのに、どうしてそのようなことができるのか不思議に思えてならないが、河野さんは「お金がないと、本を買うこともできなくて不自由だろうし、せっかく会ったんだから」と当たり前のように話す。

「人を憎んだり、うらんだりすることは、限りある自分の人生をつまらないものにしてしまう。憎しみやうらみを抱いたときにその人の人生は楽しいものになるでしょうか。警察やマスコミ、オウムをうらみ続けたのでは人生楽しくないでしょう。自分の人生は幸せになるため、楽しむために生まれてきたと思っていますから」と言う。

 

仮に、私が河野さんの立場になった場合、無実の罪で犯罪者に仕立て上げられ、さまざまな苦しみを経験したら、警察、マスコミ、オウム関係者の全てを憎み恨むだろう。子供たちに嫌がらせ電話や無言電話であっても真摯に対応するように指導できるか疑問である。オウム関係者が謝罪に来ても顔も見たくないと言って謝罪を拒否するだろう。河野さんの広い心に接すると自分の心の狭さを痛感する。河野さんは「私はできることなら、人間の優しさを大事にしていきたい」とも言っていた。広い心で生きたいと思っても小人の私にはなかなか難しいかもしれない。でも、できるだけそれに近づきたいと思う。