徐京植氏(ソ・キョンシク、서 경식、1951年 - )が「18歳のためのレッスン第11回」を担当した。今回は「日本国憲法はアジアへの国際公約」というテーマで進められた。徐京植氏は、在日朝鮮人作家で、東京経済大学現代法学部教授である。
徐京植氏の話は、詩人尹 東柱(いん とうじゅう)の詩「星を数える夜」の紹介から始まった。
「星をかぞえる夜」
季節の移りゆく空は いま、秋たけなわです
私はなんのうれいもなく 秋の星を残らず数えられそうです
胸に一つ、二つと刻まれる星を
いま、すべて数えきれないのは
すぐに朝がくるからで、
まだ 私の青春が終わってないからです
お母さん
そして あなたは遠い北間島におられます
私はなにやら恋しくて
このおびただしい星明かりがそそぐ丘の上に
私の名を書いてみて
土でおおってしまいました
夜を明かして鳴く虫は
恥ずかしい名を悲しんでいるようです
しかし 冬が過ぎ、私の丘の上にも春が来れば
墓の上に緑の芝草が萌えるように
私の名が埋められた丘の上にも
誇らしく草が生い茂ることでしょう
尹 東柱が書いた「星をかぞえる夜」は、現在の韓国や北朝鮮の人たちに一番愛され、一番知られている詩である。韓国の20代の95%以上の人がこの詩を知っていると答えている。韓国は日本のすぐ隣にある国で、しかも20世紀の初めには韓国と日本は一つの国であった。 朝鮮人にとって喜ばしいことではなかったが、そういう関係にあった韓国や北朝鮮の人達が一番愛している詩人のことを日本人はどのくらい知っているだろうかという疑問から話は始まった。
この詩は日本が朝鮮を植民地支配している時に書かれた詩である。当時、朝鮮においては植民地統治政策により、創氏改名と朝鮮語使用禁止が行われていた。尹 東柱は日本の大学で勉強することを希望した。しかし、そうするためには先祖から受け継いできた名前を変えなければならない。この詩はそのときの葛藤と苦しみから生まれた詩である。尹 東柱は、平沼東柱という日本名に改名して、日本に行き立教大学と同志社大学に在学して英文学を学んだ。同志社大学在学中に朝鮮独立を企画したという治安維持法違反によって逮捕され、1944年日本国家が禁止する思想宣伝の罪により懲役2年の判決を受け福岡刑務所に収監された。そして1945年2月16日、得体の知れない注射を連日打たれ、亡くなる間際、母国語で何事か大きく叫んで息絶えたという。その言葉が何であったか、日本の看守にはわからなかった。だが、「尹 東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました」という証言が残っている。
尹 東柱、福岡刑務所で死亡、満27歳であった。朝鮮解放、半年前のことである。
尹 東柱は大学在学中に朝鮮語弾圧の中、敢然とハングルで多くの詩を書いたが、逮捕された時に日本の官憲に押収され、多くは消失してしまった。尹 東柱の友人などがハングルで書かれた尹 東柱の詩を甕に入れ地下深く隠し持っていたのが、日本敗戦後、紹介され抵抗詩人、民族詩人として知られるようになった。生前は一冊の詩集も無く、無名の青年であった。
尹 東柱の「星をかぞえる夜」という詩は朝鮮の人々にとって一番有名な詩で、一番愛されている詩であるという話であったが、それほど有名な詩人にもかかわらず、私は尹 東柱を知らなかったし、「星をかぞえる夜」も初めて知った。
徐京植先生は、尹 東柱が日本であまり知られていないことは、知られないそれなりの理由があることを知って欲しいと語っていた。尹 東柱の「星をかぞえる夜」には植民地支配というものがなんであるかということが凝縮されているという説明であった。
日本国の植民地になった朝鮮では、学問をするためには朝鮮名から日本名に名前を変えなければならず、日本国籍を申請し、ハングル語の使用禁止を受け入れ、日本臣民として誓約書を提出し日本の大学に進学した。しかし、彼の民族の誇りは、彼の心の中でいつも朝鮮独立を叫ばないではいられなかったろうと思う。尹 東柱が現在の韓国や北朝鮮の人たちに今も愛されていることがよく理解できる。
私は4月からハングル講座を受講する。いつの日か尹 東柱の詩をハングル語で読みたいと思う。ハングル語を学び韓国の人と接し韓国の文化に触れたいと思う。