ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「ハングルへの旅」を読む

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四月から韓国語を勉強しようと思って参考書をネットで探していた。その時に関連書籍ということで表示されたのが茨城のり子さんの「ハングルへの旅」であった。紹介文に、50代から学び始めたハングルは、はたして魅力溢れる言語だった。韓国への旅の思い出を織り交ぜて、ハングルの心を伝える「誘惑の書」と書いてあり興味を惹かれ読むことにした。

 

茨城のり子さん(1926年(大正15年)6月12日 生ー2006年(平成18年)2月17日没)は私の好きな詩人である。彼女は詩人、エッセイスト、童話作家、脚本家として活躍された方であるが韓国語を学んでいたことは知らなかった。

茨城のり子さんは多数の詩やエッセイを残している。その中でも私が一番好きな詩は「わたしが一番きれいだったとき」である。茨城のり子さんが15歳の時に太平洋戦争が始まり19歳の時に敗戦を迎えた。その時の体験である戦時下の女性の青春を描いた茨木のり子さんの詩「わたしが一番きれいだったとき」は国語教科書にも掲載された詩である。

 

わたしが一番きれいだったとき 

 

                茨木 のり子

 

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達がたくさん死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり

卑屈な町をのし歩いた

 

わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった

 

だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように

              ね。

 

 

「ハングルへの旅」は、茨城のり子さんが1986年に上梓した書籍である。いまから35年前に書かれた本である。茨城さんは1976年、50歳の時に韓国語を学び始めた。そして韓国語を学んで10年後に「ハングルへの旅」を書いたことになる。

 

早速、「ハングルの旅」を読み始める。

「ハングルは今から575年前に、李朝世宗大王が学者たちに命じて作らせた書き言葉である。朝鮮半島の歴史は5千年に及び、話し言葉はすでに溌剌と連綿と生きつづけてきたが、書き言葉は漢文しかなかった。当時の知識人は漢文の読み書きができていたが、大多数の人たちは漢文の読み書きができなかった。世宗大王はそれを哀れんで、みずからの心情を誰しもがたやすく書けるようにたやすく読めるように、きわめて人工的な文字を創らしめたのである。それがハングルであり、ハングルには偉大な文字という意味がある」と書かれていた。

 

ハングルの日

「毎年、10月9日は「ハングルの日」という祝日で、休みになる。ソウルの徳寿宮の中に世宗大王銅像がある。(30年以上前の)10月9日、(茨城のり子さんが)世宗大王に敬意を表して訪れたら、大学生グループが銅像の前で集会をしていた。そして代表が銅像の前で声明文を読み上げていた。学生たちの声明文を聞いていたら「日帝時代の弾圧にもかかわらず、ハングルは滅びず健在である・・・・・・・」と報告していた。次々に花束が捧げられ、世宗大王の足下は花で埋まった。

苛烈な歴史のなかで今日まで、自分たちの言葉を守り抜いたというのは素晴らしいことである。誇っていいことであろう。

清をつくった満州族は、漢文化、漢語を積極的に採り入れ同化し、満州語は漢語に吸収されて消えた。そして満州語を失った満州族もいつのまにか消えてしまった。

戦後すぐ日本は「日本語をやめてフランス語にしよう」「漢字かなをやめてローマ字にしよう」とかが大まじめに論じられたことがあった。母国語は民族の核をなすものである。韓国は「母国語の日」を作って祝っている国である。

 

「ハングルへの旅」は確かに誘惑の書であった。読んで、扶余に行きたくなった。そこで百済時代の石仏と石塔を見たくなった。扶余は百済の古都である。

韓国語の「シージャギ  バニダ」は日本語で「はじまりが半分だ」という意味である。これは「始めようと意志した時は、すでに半分がたは達成したようなものだ」という意味らしい。

15世紀ハングルが作られたときに発行された「訓民正音」という書物には「賢いものは半日、愚かなものでも一週間で読める」と書かれているということを聞いて学び始めたが、しかし、韓国語は思った以上に難しいようだ。さらに齢71歳、おそるべき晩学である。

行く道は果てしなく遠く、どこまでいけるかわからないが、韓国の諺「シージャギ  バニダ、はじまりが半分だ」というおおらかさで歩いていこうと思う。