ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

声でつづる昭和人物史「宮本常一」を聴く

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昨夜、ラジオを聴きながら休もうと思い、NHKラジオのらじる・らじるの「聞き逃し」コーナーをチェックしていたら、カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史〜宮本常一」という番組を見つけた。

 

昔、宮本常一氏の「忘れられた日本人」という本を読んで感動したことがある。その時の思い出が蘇り「声でつづる昭和人物史〜宮本常一」という番組を聞くことにした。

宮本常一氏{1907年(明治40年)8月1日生ー1981年(昭和56年)1月3日没、享年73}は日本の民俗学者である。民俗学という学問は、名もない人たちが、どのような物を使い、どのように物を作り、どのようにして暮らしを成り立てているのかを調べ、残された物や資料を探し、日常の暮らしを訊き尋ねて、過去から現在までの変化の途すじを追う学問である。

 

宮本常一氏は、1930年代から1981年に亡くなるまで、戦前から戦後、そして高度経済成長期にかけての73年間の生涯で、日本列島を約16万キロメートルにわたってフィルドワークを行い、歩く、見る、訊く、書くを実践して民俗学に莫大な資料を残した人である。彼が全国を歩き続けて、訊き集められたのは、農村や漁村に生きる人々の生活の記録、あるいは経済や政治の政策からこぼれ落ちて弱者とならざるを得なかった人々の声や一代記であった。

宮本氏はいつも「樹を見ろ。いかに大きな幹であっても枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて幹を論じてはいけない。その枝葉の中に大切なものがある」と語っていた。

 

NHK番組は1978年(昭和53年)に宮本常一さんが青森県で行った文化講演会「生活の伝統」の記録であった。

宮本常一氏は、この講演会の中で

『青森は日本の北の端で、中央から遠く離れた田舎だと思う人もいるかと思うが、民俗学から青森を見ると大変興味深い。民俗学を勉強すると、その地で生きた人々がどのようにして生活を豊かにしようとしてきたかがわかる。幸せになるために積み上げてきたものを見つけることができる。青森には津軽三味線というのがある。津軽じょんがら節という民謡は全国的にも有名である。この音楽は青森の風土に根付いて、青森の深い思いを感じることができる。しかし、この三味線というのは青森でできたものではない。日本海を通って若狭あたりから青森にもたらされたものである。同じく津軽じょんがら節の元歌は三味線とともに青森にもたらされたものである。津軽じょんがら節の元歌は何かと言うと、熊本天草のハイヤー節である。九州では南風のことをハエの風という。ハイヤーはハエの風からきた言葉である。このハイヤー節が日本海という海の道を通って若狭経由で青森に届いた。さらに、このハイヤー節の元は何かと言うと、これは沖縄のエイサーである。沖縄で古くから演じられていたエイサーが海の道を通って、ハイヤーになり津軽じょんがら節になったということが民俗学的に証明されている。

 

この津軽三味線津軽じょんがら節も元々は青森のものではないということです。併せて、青森の昔の人は力があったということをしっかり知っておいてください。

当時の青森人は、この異質なものを自分の生活に合わせるように発達させる、こなす力を持っていたということです。エイサーをハイヤー節を津軽じょんがら節に作り直したのです。青森の文化にしてしまったということです。

 

これが大切なことです。自分のところで生まれたものではないものでも、自分の土地に合わせ、自分の生活に合わせるように、主体性を持って自分のベースに作り直す。これが大事です。これが地域文化です。地域の人の生きる力のあらわれです。

 

今、地域が廃れ、都会の文化一色に塗り替えられようとしている。地域社会の主体性、自主性が失われつつある。地域が元気な社会ほど健全な社会です。外から来るものに振り回されないように自分自身の主体性の中から生まれるものによって地域社会を作って欲しい。「随所に主となれば立処皆真なり」の心で地域社会を作っていくことを期待します』と話されていた。

 

宮本常一氏は、自叙伝「民俗学の旅」の中で次のように述べている。

「私は長い間歩き続けてきた。そして、多くの人にあい、多くのものを見てきた。その長い道程の中で考え続けた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。失われるものがすべて不要であり、時代遅れのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向わしめつつあるのではないかと思うことがある。進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、われわれに課せられている、もっとも重要な課題ではないかと思う」と述べている。

 

まさに日本の近代化、経済発展は濁った盥の水を流すために、大事な赤ん坊ごと流す愚をしてこなかったかと問われ、「断じてない」と言いきれるだろうかと思う。宮本常一氏の問いを真剣に受け止めていかなければと思う。