ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎歴史探訪第2回を受講

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400年前頃の長崎古地図

長崎歴史探訪は長崎の古地図を元に長崎の現在地を訪ねる企画である。今回は400年前の長崎の古地図を使って長崎を歩くこととなった。長崎の港は1571年にポルトガル人のアドバイスによって開港されて今年は450周年になる。この古地図には出島が書かれている。出島は1636年に築造されてできた島である。この古地図は開港から70年くらい後の1640年代の古地図と思われる。長崎の開港時代に活躍したポルトガル人は去り、代わりにオランダ人が出島に移り住み長崎がさらに開拓され発展した頃の地図である。この地に最初に町建てされた6ケ町の名前が残されている。6ケ町とは、横瀬浦町、外浦町、ぶんち町、平戸町、大村町、嶋原町である。今日は出島を出発して約400年前の長崎の面影を探したいと思う。

 

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S点をスタートしてG点までのコース。距離1.3km、最低高度6m、最高高度37m、消費カロリー301cal、天気晴れ、気温24度

今日は市内の中心部を歩くコースである。長崎の港は細長い岬の突端に作られた。その岬の突端部に出島が作られ、その対岸の高台に西役所が建てられた。当時は出島は島であり岬の周りはすべて海であったが、埋め立てがなされて当時とは景観が全く変わってしまっている。

 

 

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出島と出島表門橋
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現在の出島と出島表門橋公園

集合場所のS地点は出島表門橋公園である。 出島には昔は橋が架けられていたが、明治時代に出島の前を流れる中島川の川幅拡張に伴い、出島の一部が削られ昔あった石橋は撤去されていた。2017年、出島表門橋が再架橋された。

 

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左:昔の出島表門橋レリーフ 右:現在の出島表門橋

江戸時代の出島表門橋は、欄干は木造で土台は石橋であったらしい。新しく表門橋を架橋する計画が起こった時、昔と同じ位置に昔と同じような橋を再現することが検討された。しかし、当時の石橋の長さは4.5mであったが、現在の出島の前を流れる川幅は30mあり、同じように作ることは叶わなかった。また当時の状況を踏まえて石橋や木造橋も検討されたが、それが当時の橋の再現と間違われる恐れもあることから、あえて地元産業である造船技術を生かした鉄橋で再現したものである。

 

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新しくできた出島表門橋を渡っていくと、地面に昔の橋の始まりの位置に印が入れてある。現在の橋の6分の1だからとても短い橋だったことがよくわかる。

 

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出島の横にかけられた橋は「出島橋」である。この橋は明治43年にかけられた。現在も使用されている道路鉄橋としては日本で1番古い鉄橋で長崎の近代文化遺産の一つである。ちなみに読みは「デシマバシ」と刻まれている。明治時代は出島を「デシマ」と読んでいたようだ。

 

 

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450年前の長崎のイメージ図

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約200年前の西役所 と出島

西役所跡に行く。ここでは現在発掘作業が行われていた。入口には上記の2枚の図が案内文とともに掲示されていた。この2枚の図からこの地で南蛮貿易が行われ、時代とともに移り変わっていったことが想像できる。


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左:外浦町石碑                               右:長崎奉行所跡地案内板

古地図を頼りに外浦町へ行く。道路も変わり、町割りも変わり、当時を思い出させるものは何もない。そういう中、立派な石碑を見つけた。旧外浦町由来と刻まれている。「この地はもと外浦町と呼ばれ1571年大村純忠の町割により開かれた長崎最古の町である・・・」と書かれている。やはりこの辺りが外浦町だと納得する。

続いて地図にある奉行屋敷を探す外浦町を基点にして地図の方向に進むと大きな看板を発見。長崎奉行所跡地と書いてある。この一帯が奉行所跡地になるのだろうが、いまはビルが立ち並び奉行所跡地のおもかげは何もない。

 

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約400年前の古地図を元に長崎の遺跡巡りをしているが、400年の歳月は何もかも消してしまう。何も残っていない。唯一目に見える形で残されているのは石垣である。江戸時代に作られた石垣、明治時代に作られた石垣。昔の石工職人が職人の魂を込めて、積んでいった石垣は寸分の狂いもなくそこに存在している。見事としか言いようがない。昔の人の丹精込めた仕事の跡を見せてもらえるのも歴史探訪の楽しみの一つである。