大村公園で花菖蒲を楽しんだ後、こんなに素晴らしい天気なのにまっすぐ帰宅するのはもったいない。これから野岳湖公園に行こう。そして緑の中を歩こうということで連れ合いと意見が一致した。野岳湖公園は大村市の隣の東彼杵町にある公園でキャンプ場などの設備もある自然豊かな広い公園である。もちろん野岳湖公園は広いから三密の心配は全くない。野岳湖公園は大村公園から車で30分ほどである。
野岳湖公園の野岳湖は1663年(寛文3年)に造られた周囲4km、貯水量120万tの人造湖である。灌漑用水のため池として造られ現在も122h aの田畑を潤している。農林水産省が選ぶ「ため池100選」に選ばれている湖である。今日は現在地から矢印方向に野岳大橋経由の湖畔巡りのウオーキングを楽しんだ。
園内の案内板に深澤儀太夫勝清さんの肖像画が掲示されてあった。案内板にはこの深澤儀太夫勝清さんが私財を投げ打ってこのため池を造ったということが書かれていた。
深澤儀太夫勝清さんのことは何も知らなかったので、ネットで調べたら大村市教育委員会の
「今も残る深澤儀太夫勝清さんからの贈り物」という記事があった。
「深澤儀太夫勝清(1584〜1663)は、肥前国(佐賀県・長崎県)で鯨取りをはじめた人といわれています。 1584年、佐賀県の武雄に生まれ大村藩波佐見で育ちました。若い頃、紀州で鯨をとる方法を学び大村藩にに帰ってきて鯨組を作り、五島や壱岐などで捕鯨を行い巨万の富を得ました。
九州のまわりの海は鯨がたくさんとれ、儀太夫はまたたくまに大金持ちになりましたが、自分は少しもぜいたくをしませんでした。鯨をとって得たお金で、お寺を新築したり、修繕したりしました。また、藩の軍用金や建築資金としてもさし出しました。村には、公用旅館や新田、数多くのため池を造って寄付し、多くの人々の利益と幸福のために使いました。その中で最も有名なのが、野岳湖をつくったことです。その頃の野岳村は雨が降れば川が溢れ、日照りが続けばすぐに田の水がなくなっていたので、大きな堤を造ればその心配がなくなると思い堤を造り村人たちを救おうと決心しました。
工事は1661年8月からはじめられ、村人たちもみんなよろこんで作業にくわわりました。『くわ』でほり、『もっこ』で運び、石を『や』でわり、土は塩をまぜてたたいてかため、丈夫なうえにも丈夫にと造りあげていきました。
そして、1年7か月後の1663年3月3日、4,200両余り(今のお金にしたら数十億円にもなる)をかけてやっとできあがり、周囲4キロメートルの堤には、ゆたかな水が満々とたたえられました。儀太夫の行いは、今も多くの人に語り継がれ、感謝祭も行われています。」とあった。


深澤儀太夫勝清さんの人となりを偲びながら湖畔を巡って行くと「野岳大橋」に出た。野岳大橋は橋長125m、幅員2m、総重量約89tの歩道橋である。この橋は公園の東サイトと南サイトを結ぶ歩行者専用の連絡橋として造られたものである。床材は本物の木と同じ感じでありながら軽くて強いプラスチックをガラス繊維で強化した新素材が使われているという説明があった。木の床材だと経年劣化で穴があくこともあるがこの床材は大丈夫らしい。
橋の上で若い女性二人組が写真を交代で撮りあっていた。「お二人一緒の写真を撮りましょうか」と声をかけると、「お願いします」と言って携帯を差し出してきた。二人にカメラを向けるとお二人とも満面の笑みでポーズをしていた。


野岳大橋を渡り、湖畔に設けられた遊歩道を歩いていく。時折、サイクリングの親子連れが通る。対岸に今渡ってきた野岳大橋が見える。そしてその先には郡岳が見える。郡岳は大村市北部に位置する海抜826mの山である。ここ野岳公園からの登山道もある。今年は郡岳にも登りたいと思う


緑に囲まれた遊歩道を進んで行くと、道路脇に紫陽花がたくさん見えてきた。白いアジサイが多い。アジサイの花の色は土壌の酸性、アルカリ性の度合いによって違ってくると習ったことがある。どうして白い紫陽花ができるのかメカニズムはわからないが、最近は白い紫陽花も人気があるようだ。


出発点に近い、トリムコース入り口に来た。ここトリムコースは小さい子どもたちの遊び場である。ここにはロング吊り橋をはじめ、丸太ステップ、モグラトンネル、ターザンロープなど子供たちの冒険心くすぐる遊びが準備されている。子供たちが元気よく楽しんでいた。


野岳湖最短一周コースを回って出発点に戻ってきた。出発点の野岳湖バス停は鯨さんをかたどってある。「どうしてこの山の中のバス停に鯨さん?」と一瞬思ったが、納得した。この野岳湖公園は深澤儀太夫勝清さんのおかげ、クジラさんのおかげによるものだと理解した。野岳湖湖畔巡りは先人の遺徳に触れるウオーキングであった。