ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「民主主義ってこれだ!」を読む

f:id:battenjiiji:20210813091413j:plain

先日、読んだ「民主主義ってなんだ?」に続いて「民主主義ってこれだ!」を読む。
この本は、SEALDs(シールズ 自由と民主主義のための学生緊急行動)のメンバーなどが、デモなどで行ったスピーチなどで編集されたものである。この本を読みながら、あの時ネットを見ながら聞いた、若い人の声を思い出した。

その中の一人の女性のスピーチを記す。
「今日、私は本当に腹が立ってここに来ました。国民の過半数が反対している中で、これを無理やり通したという事実は、紛れもなく独裁です。
だけど私、今、この景色に、本当に希望を感じています。この国が独裁を許すのか、民主主義を守り抜くのかは、今私たちの声にかかっています。

先日、安倍首相はインターネット番組の中で、こういう例をあげていました。ケンカが強くていつも自分を守ってくれている友たちの麻生くんが、いきなり不良に殴りかかられたときには、一緒に反撃するのは当たり前ですよねって。ぞっとしました。この例えを用いるのであればこの話の続きはこうなります。
友たちが殴られたからと一緒に不良に反撃をすれば、不良たちはもっと多くの仲間を連れて攻撃をしてくるでしょう。そして暴力の連鎖が生まれ、不必要にまわりを巻き込み、関係ない人まで命を落とすことになります。
この例えを用いるならば、正解はこうではないでしょうか。なぜ彼らが不良にならなければならなかったのか、そして、なぜ友達の麻生くんに殴りかかるような真似をしたのか、その背景をしっかりと検証し、暴力の連鎖を防ぐために、不良が生まれる社会の構造を変えること。それが日本の果たすべき役割です。

この法案を支持する人たち、あなたたちの言う通り、テロの脅威が高まっているのは本当です。しかし、彼らは生まれつきテロリストだったわけではありません。なぜ、彼らがテロリストになってしまったのか、その原因と責任は国際社会にもあります。
9.11で3000人の命が奪われたからといって、アメリカはその後、正義の名のもとに130万人もの人の命を奪いました。残酷なのはテロリストだけではありません。
わけのわからない例えで国民を騙し、本質をごまかそうとしても、私たちは騙されないし、自分の頭でちゃんと考えて行動します。

日本も守ってもらってばかりではいけないんだと、戦う勇気を持たなければならないのだと、安倍さんは言っていました。だけど私は、海外で人を殺すことを肯定する勇気なんてありません。かけがえのない自衛隊員の命を、国防にすらならないことのために消費できるほど心臓が強くありません。
私は、戦争で奪った命を元に戻せない。
空爆で破壊された町を建て直す力もない。
日本の企業が作った武器で子供達が傷ついてもその子たちの未来に、私は責任を負えない。
大切な家族を奪われた悲しみを、私はこれっぽっちも癒せない。
自分が責任の取れないことを、安倍首相、あなたのように「私が責任をもって」とか「絶対に」とか「必ずや」とか威勢のいい言葉でごまかすことなんてできない。

二度と戦争をしないと誓ったこの国の憲法は、あなたの独裁を認めはしない。
国民主権も、基本的人権の尊重も、平和主義も守れないようであれば、あなたはもはやこの国の総理大臣ではありません。民主主義がここに生きているかぎり、私たちはあなたを権力の座から引きずり降ろす権利があります。力があります。

昨日テレビのニュースで東京の日比谷野外音楽堂が戦争法案に反対する人でいっぱいだったのを見ました。足腰が弱くなったおじいさんやおばあさんが暑い中わざわざ外に出て、震える声で拳を突き上げて戦争反対を叫んでいる姿を見ました。この70年間、日本が戦争をせずに済んだのはこういう大人たちがいたからです。ずっと、こうやって闘ってきた人たちがいたからです。
そして、戦争の悲惨さを知っているあの人たちが、ずっと声を上げ続けてきたのは、紛れもなく私の、私たちのためでした。ここで終わらせるわけにはいかないんです。私たちは「戦後」を続けていくんです。
武力では平和を保つことができなかったという歴史の上に立ち、憲法9条という、新しくて、最も賢明な安全保障のあり方を続けていくんです。

私はこの国が、武力を持たずに平和を保つ、新しい国家としてのモデルを国際社会に示し続けることを信じます。
偽りの政治は長くは続かない。
そろそろ、終わりにしましょう。
そして、新しい時代を始めましょう。
2015年7月15日、私は戦争法案の強行採決に反対します」

 

f:id:battenjiiji:20210813091845j:plain

シールズの集会で若い人が次々と壇上に上がり、自分が考えたことを自分の言葉でみんなに語った。安倍首相の話はおかしい、筋が通らない、ごまかしが多いと自分の言葉で語り、訴えた。たった10人足らずの若者が始めた抗議行動が波紋を広げ、国会議事堂前に12万人の抗議行動の輪に広がった。

「民主主義ってこれだ!」のあとがきの中でシールズの設立時のメンバーの一人が語っている。
「見渡す限り知らない人ばかり。みんな一人で抗議に来る。誰かに言われたからとかじゃなく、自分の意思で。少しの戸惑いと、ためらいを抱えて。抗議に参加してはじめて一人じゃないと気付く。同じ怒りを持った人がこんなにもいることに、なんだか嬉しくなる。本当に社会が変わっているのを目の当たりにする。これだけの人が、主権者であることを自覚して、責任を負って政治に参加しているってすごい。「民主主義はこれだ!」
シールズは一つの賭けだ。
勝敗を決めるのは未来の人だろう。勝つか負けるかわからないし、これが正解なのかもわからない。先の見えない不安の中を手探りに進むしかない。それでも賭けに出るのは、何の変哲もない、けれども絶対に失いたくない民主主義の普通の日常、立憲主義の普通の生活を守るためだ。そしてその普通の生活を守るための賭け、命懸けの戦いは、人類が歴史的にずっと反復してきたことだ。前例はいくらでもある。

社会はそんなに簡単に動かないし、変わらない。しかし、それらは全て言うまでもないことで、言ったところで何の意味もない。「社会に絶望した」とか「日本は終わった」みたいな話は当たり前すぎて、もうこれ以上聞きたくない。絶望の国で何ができるのかが問われている。全部が変わるなんてことは誰も信じないけど、はたして変わらないものなんてあるのだろうか。

誰かのせいにせず、やるべきことを、できる限り、淡々としてやってきた。これからもそうするだろう。この本をどうしても出したかった理由は、自分たちみたいにたった数人で、僕らの知らない街で何か始めようとしている「あなた」に読んで欲しかったからだ。僕たちは「あなた」と何も変わらない、誰にも知られていないところから始まった。意見をいうことを恐れないと言いながら、ぶっちゃけ「デモなんてやって大丈夫かな?」と、やるまでビビりまくっていた。いろんな意味で「右も左も分からない」ままやってきたのは、自分たちにはここまでできるんだと、未来の人たちに伝えたかったところもある。まだまだ、やるべきことは多い。やれることを、やれるからやるだけ。ただ、それだけなんだ。」と語っている。

シールズは、俺たちの民主主義が壊されているんじゃない?と考えた10人たらずの若者が集まって、抗議行動を起こし行動してきた。民主主義や国民主権という言葉を信じて、あきらめず現状を変えようと行動する若い人たちを見て、私は前途に光を見る思いがする。変わらないものは何もない。若者に期待したい。