ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

閉幕した東京オリンピック2020について

週刊誌に、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によって1年延期された東京五輪が幕を閉じた。人の交流を避けることが求められた緊急事態宣言の中、多くの反対を押し切って開かれた大会は、五輪のあり方を問う機会となったとして、作家の赤川次郎さんと社会学者の上野千鶴子さんの視点が掲載された。

赤川次郎さんの視点の要約を記す。
「傷だらけの祭典」<東京オリンピック2020>をひと言で言えば、これが適当な言葉だろう。私は、今度のオリンピックの残した最大の傷は(もちろんコロナの感染拡大もあるが)、日本のジャーナリズムの敗北だったと思う。大新聞やTV局はオリンピックの協賛企業になって、国民の命を守ることより、保身に走った。結局オリンピックは開催され、それがコロナの感染爆発をひき起す可能性を知りながら、ジャーナリズムは、首相と都知事が死のルーレットに国民の命をチップとして賭けるのを黙って見ていた。今、現実に医療崩壊が起きても、政権を非難する声は小さい。
オリンピック閉会後にコロナ感染者数が激増している今、オリンピックのつけを払わされているのは、すでに崩壊しつつある医療現場で必死に戦っている医師、看護師や、そして感染しても入院さえできずに苦しむ人々である。
いくら菅首相小池都知事が「オリンピックと感染拡大は関係ない」と言い張っても、誰が信じるだろうか。しかもオリンピック開催にあれほど執着していたこの二人が、コロナ対策となると、まるで他人事のように「人流」のせい、と言って澄ましている。
反対の声を無視して、オリンピックを強行した人々にこそ、つけを払ってもらわなくてはならない。その責任を取らせたとき、初めてオリンピックは終るのだ。
最近私は二つの小さな記事に目をとめた。一つは、電通が史上最高益を出したという記事。もう一つは、IOCのバッハ会長が、菅首相小池都知事に功労賞を贈ったという記事である。このニュースで私が連想したのは、一夜に十万人の民間人の死者を出した昭和二〇年三月一〇日の東京大空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイに、戦後、日本が「航空自衛隊の創設に貢献した」として勲章を贈ったことだった。立場は違うが、「日本人の命を危険にさらした」という点では共通している。
そして、少しほとぼりがさめたころに、日本政府は「東京オリンピック開催に貢献した」として、バッハ会長に勲章を贈るに違いない、と私は思っている。」

上野千鶴子さんの視点の要約を記す。
東京五輪は巨大な負の遺産を残して終わりました。東京五輪開催の主催者だったIOCJOC組織委員会、政府、東京都の5者に対する信頼はことごとく崩れました。五輪の開催期間中にコロナ感染者は都内で1日あたり5千人超、全国では1万人を超え、死者の累計は1万6千人近くに達しました。それなのに、オリンピックを強行して医療崩壊がおこり、コロナ感染が陽性と判定されても何の治療も受けられない「棄民政策」を政府が堂々と口にする状態になっています。国民はもっと怒って当然です。
さらに、オリンピックを通して、スポーツ界やアスリートに対する反感すら生まれたように思います。さかのぼれば森喜朗オリパラ組織委会長辞任に際してのスポーツ界の沈黙は不気味でした。現役アスリートたちが、利権と金にがんじがらめになっていることがわかりました。メダル獲得後に彼らが口にしたのは、五輪開催にこぎつけた主催者とそれをサポートしたひとたちへの感謝だけでした。人工呼吸器をつけてコロナと闘っている患者や医療者が、アスリートから「勇気と感動を与えたい」と言われても、素直に受けとれるだろうかと思いました。「アスリート・ファースト」とは、アスリートのエゴイズムかとすら思えます。
五輪の虚構がこれだけあきらかになった日本が、この先の将来、ふたたび五輪を誘致することは二度とあるまい、と思います。莫大な授業料を払って日本と日本人が学んだのはそういう負の遺産でした。」


お二人の「東京オリンピック2020」についての視点を読み大いに共感した。赤川次郎さんが指摘するジャーナリズムの敗北はまさにそのとおりだと思う。電通の最高益の記事は癒着と天下りの成果として莫大な税金が電通に流れたものと思う。また、バッハ会長への勲章授与の予想は、菅政権は国民の生命を軽視しているから当たるように思う。オリンピックを強行した人たちにそのツケを払ってもらい責任をとらせたとき初めてオリンピックは終わる、と赤川さんは述べている。これからも執拗に責任を追求しなければと思う。

上野千鶴子さんの視点については、自宅療養という棄民政策については国民はもっと怒るべきと言われていたが私もそうだと思う。また、オリンピック期間中、アスリートが言う「勇気と感動を与えたい」という言葉に素直に喜べないものを私も感じていた。何か単純にスポーツを楽しめないオリンピックであった。五輪の虚構が明らかになった今、日本は二度とオリンピックを招致することはないということだけを学んだオリンピックであった。