ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎歴史文化探訪ー稲佐(いなさ)地区を歩くー

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青点をスタートして矢印方向に進み赤点に戻るコース。距離2.6km

 

長崎歴史文化探訪という西公民館講座に参加した。この講座は長崎市内のあちこちをぶらぶら散歩しながらその歴史を覗いてみようというものである。私は長崎に長年住んではいるが、朧げな知識しか持ち合わせていない。この機会に少しでも長崎のことをよく知りたいと思い参加することにした。まず、1回目は西公民館の所在地である稲佐地区を歩くこととなった。

稲佐地区は長崎港を挟んで長崎の西部に当たる場所である。今は埋立され陸地になっているが、当初は、出発地点の青点やゴール地点の赤点あたりが海岸線であったようだ。

稲佐地区は、長崎の歴史を色濃く残している場所でもある。

 

 

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  悟真寺(ごしんじ)山門と本堂

 

悟真寺は、久留米の善導寺の僧、聖誉が1589年(慶長3年)この地に創建したお寺である。当時、長崎の中心は「小ローマ」と呼ばれるほど教会とキリシタンばかりであった。教会は数多く建てられていたが、仏教を祀るお寺はなく、長崎では悟真寺が仏教再興の最初のお寺となった。創建後まもなく、長崎に住み貿易を行っていた明国の商人、欧欧陽と張吉泉が帰依し、寺内に土地を賜り唐人墓地が設けられ、長崎において一番最初に華僑の菩提寺となった。

山門は幕末の頃に建てられたもので1903年(明治36年)に大改造が行われた。竜宮城の楼門にも似た形の赤い門は中国風であり、壇徒である中国人の意向を反映したものである。本堂は昭和20年の原爆で倒壊し、昭和34年に現在の本堂が再建された。

 

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悟真寺な境内の一角に石碑が建っている。一つは「金島(こがね島)」の石碑であり、一つは「金島枯骨合葬之処」と記してある。長崎名勝図絵に金島は描かれており、この島の下半分は金であるが、掘ってはならぬと言い伝えられいた。明治10年代まで存在していたが、埋め立てと共に消滅した。この金島の場所は現在の長崎三菱造船所の中にある。

1860年、三菱長崎造船の前身である長崎製鉄所がこの金島で工事を行なっていたところ、石工/善之助が土中より枯骨と櫛を掘り出した。その日の夜、善之助の枕元に若い女の幽霊が現れ「私の骨を掘り出して下さりありがとうございました。たってのお願いですが、他に男の骨が近くに埋まっています。こちらの骨も掘り出し、私の骨と同じ場所に埋めてください」と頼まれた。翌日、役人立会のもと土中を掘ると男の白骨が出てきた。一つ壺にこの男女の枯骨と櫛を納め、悟真寺の一隅に埋葬するとあった。「金島故骨合葬之処」は比翼塚であった。

 

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  唐人墓地祭場所石壇と当時の境内の様子

悟真寺の境内の中に国際墓地がある。「稲佐悟真寺国際墓地」は長崎市内にある3ヶ所の国際墓地の中で最も古い歴史を持つ。最初にできたのは、1602年(慶長7年)に中国人のための唐人墓地が開設された。国際墓地の中でも最も広い場所を占めているのは中国人の墓であり、墓地入口には春秋の祭祀法要を営む場所として「唐人墓地祭場所石壇」が作られている。

 

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1654年(承応3年)唐人墓地に続いて悟真寺にオランダ人墓地が開設された。オランダ人墓地の門と赤い煉瓦塀は1918年(大正7年)にオランダ政府によって設置されたものである。静寂に中に板型の寝墓や石碑が整然と並んでいる。オランダ人墓地は出島滞在中や航海中に亡くなったオランダ人のために造られたものである。

 

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1858年(安政5年)ロシアの軍艦アスコルド号が長崎に入港し、病兵25名の治療を出島医官に依頼して悟真寺にて治療する。このときに死亡した乗組員を埋葬するためにオランダ人墓地の上段にロシア人墓地を開設した。後に日露戦争で犠牲になった兵士を合葬した集団墓地を含め270基のロシア人の墓が造られた。墓地内にはロシア正教の白いチャペルが設けられている。1991年(平成3年)旧ソ連邦のゴルバチョフ大統領夫妻が来崎し、ロシア人墓地を訪れた。

ロシアと稲佐の関係は深く、その後、ウラジオストックの艦隊の一部は冬場はウラジオストック港が氷結のため使えなくなることから、冬場は長崎に滞在して修理などをして過ごすことが多くなり、日露戦争までは多くのロシア人が稲佐に滞在したようだ。

 

稲佐は長崎の中心から港を挟んだ対岸である。当時、仏教のお寺が長崎の中心部ではなく、対岸の稲佐地区に最初にできたのも当時のキリスト教の勢いが影響したのかもしれないと考える。また、ロシアの艦船が長崎に入港した時に、中心部に近い場所でなく、稲佐地区を接岸場所に指示したのも軍事上の配慮もあったようだ。稲佐を歩くと当時の歴史の真実が見えて来る感じがする。

 

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歴史上の人物の話ではないが、稲佐は長崎の有名人が生まれた場所である。長崎の有名人といえばもちろん福山雅治さんである。今回のぶらぶら散歩の途中、福山さんの実家の前を通った。福山さんのフアンがやるように、記念に福山さんの実家の写真を一枚撮った。これで私も立派なフアンになった気分である。