ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪ー田上から中心部へー

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青点をスタートして赤点を目指すコース。距離3.24km、最高高度179m、最低高度19m、上昇高度57m、天気晴れ、気温17度、湿度62%

 

歴史文化探訪の2回目を受講する。今回は田上(たがみ)から長崎中心部へ歩くコースである。今日のコースは、長崎の出入り口の一つである茂木街道の一部を歩くことになる。今日の集合場所は田上のバス停である。田上は長崎と茂木を結ぶ茂木街道の途中にあり、昔、馬や籠あるいは人力車の時代には、ここに峠の茶屋があってここで休憩しながら峠を上り下りしていたようだ。田上の峠の茶屋は、居留地時代の長崎に住む外国人にも人気があったようだ。しかし、今はそのような鄙びた風情は全く見られない。

 

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集合場所のバス停の近くの花壇の横には歓迎の飾り付けとニューヨークの自由の女神みたいな意味不明なオブジェが置かれていた。近所の方がご好意で作られて、展示されているのではと想像するが、折角だから何かしらの説明があればもっと良かったのにと思う。

 

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講師の案内で近くの田上寺(でんじょうじ)へ行く。お寺の本堂の屋根に三つ葉葵の家紋が飾られてある。その理由は、この田上寺に三代将軍家光の弟である松平長七郎の墓があるかららしい。松平長七郎島原の乱に参加し、この地で亡くなったという。新しい石塔には戒名が刻まれてある。○○院殿○○大居士と書かれてある。院殿とか大居士などという戒名は滅多に見ない。

 

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すぐ隣の徳三寺へ行く。徳三寺の境内には向井去来の「名月や たがみにせまる 旅こころ」の句碑が置かれてある。向井去来の叔母である久米勝(クメ カツ)は田上尼として田上に「千歳亭」という庵を構えていた関係で、帰郷した去来は田上の千歳亭に滞在して観月会を催した。その時読んだ句である。“たがみ”とは「旅(た)が身」と地名の田上をかけていて去来の郷愁の思いが込められた句と言われている。

 

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田上のバス停から少し進んで、家並みの途切れから景色を眺める。高台から見た景色は、溺れ谷みたいな地形の山肌にびっしりと家が立ち並ぶ。長崎は平地がない。海からすぐ山が迫る地形である。その山肌に沿って家が立ち並ぶ。谷底から山の上まで家を建ててできたのが長崎の町並みである。今日は、峠から下るコースだから楽である。逆に谷から峠に上るコースだったら途中で断念していたかもしれない。坂の町長崎は上りはつらい。  

 

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ピントコ坂と呼ばれる急な坂道を下っていく。この坂がピントコ坂と呼ばれる由縁の傾城塚(おいらん塚)に行く。唐の商人“何臏徳(カ ピントク)”は丸山の遊女“阿登倭(オトワ)”と出会い二人は恋仲になった。二人が幸せの絶頂の中にある頃、唐人が贋金を作っているという噂が立ち、ピントクが犯人として逮捕され処刑された。しかし、実際は濡れ衣で阿登倭に横恋慕した有力者の讒訴であった。悲嘆に暮れた阿登倭はピントクの亡骸を貰い受け、この地に埋葬した後自害して果てた。哀れに思った町の人は二人を一緒に葬った。これが傾城塚(おいらん塚)
である。ピントクの由来からこの坂をピントコ坂と呼ぶようである

 

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おいらん塚を過ぎてさらに下ると大きな石塔がある。長崎市指定有形文化財の「茂木道無縁塔」である。1712年(正徳2年)8月天然痘が流行し、翌年3月までに患者3千余人を数えたという。この時、死者(主として子供)を供養し併せて長崎の町に病気が入ってこないよう祈念するために、この供養塔を建てたと思われる。正面には釈迦如来像を、右面には阿弥陀如来像を、左面には観世音菩薩像を、裏面には地蔵王菩薩像を、それぞれ石で作り出してあり、基礎石には獅子の像が掘り出されている。

 

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茂木道無縁塔から、さらに下りていく。今まで見下ろしていた景色が見上げる景色に変わっていく。山の上まで家が立ち並ぶ長崎ならではの景色を眺めながら下っていくと愛八さんの墓に着く。愛八さんは丸山の芸者さんである。郷土史家の古賀十二郎と共に埋もれていた長崎の民謡の発掘につとめ、昭和5年長崎の代表的な民謡となっている「浜節」「ぶらぶら節」のレコードを世に出した人である。なかにし礼さんの直木賞作品「長崎ぶらぶら節」の主人公のモデルとなった女性である。

 

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愛八さんのお墓を後にしてさらに下っていくと周りの景色を仰ぎ見る平地に近くなった。ここは国指定史跡の高島秋帆旧宅である。高島秋帆は江戸時代の砲術化で、1841年(天保12年)、幕命により江戸の徳丸が原で西洋砲術の演習を行った人である。徳丸が原は現在の高島平で高島秋帆に因んで名前がつけられた場所である。旧宅は原爆で倒壊し、跡地には硝煙蔵に使われたといわれる石倉・石垣・土塀・井戸・砲痕石が残されている。

 

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田上から正覚寺まで茂木街道の一部を下ってきた。この道は江戸時代から長崎の東玄関である茂木への主要道路であった。長崎は海以外の三方を城壁のような山に囲まれたような町である。どこにいくにも峠を越えなければ出入りできない町であった。今でこそトンネルがあちこちに掘られ上り下りしないで行けるが、昔の人は歩いて峠を上り下りしながら出入りしていたことを思うと頭が下がる思いがする。昔の人が歩いた道を昔の人の気持ちを思いながら歩いた。昔の人も歩き疲れたら、立ち止まり溺れ谷のような景色を眺め癒し、そしてまた歩き始めただろうと思った。