ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎歴史文化探訪ー飽の浦から西泊へー

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青点(飽の浦、アクノウラ)から西泊(ニシドマリ)まで進み、反転して赤点(水の浦)まで戻る往復コース。距離5.39km、最高高度48m、最低高度1m、上昇高度104m、消費カロリー666kcal、天気曇り、気温13度、湿度73%

 

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今日の歴史文化探訪の集合場所は長崎西部に位置する「飽の浦公園」である。この公園には荒木宗太郎宅跡という石碑が建てられている。荒木宗太郎は16世紀末期に活躍した熊本出身の朱印船貿易商人である。1588年長崎のこの地に居を構え、1592年から秀吉より朱印状を受け安南(ベトナム)・シャム(タイ)との交易をおこない巨利を得た。荒木宗太郎はベトナム国王の外戚にあたる娘さん(アニオーさん)を妻として迎えたことが今でも長崎では語り継がれている。アニオーさんが長崎入りの際、長蛇の豪華な行列が続いたことが現在も御朱印船とともにアニオー行列として長崎の秋のお祭りであるお宮日(おくんち)の出し物として残されている。

 

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飽の浦は三菱重工長崎造船所の前身である長崎製鉄所が1868年(明治元年)に建設された場所である。官営の長崎製鉄所は1884年(明治17年)三菱に経営が引き継がれ、三菱造船所と改称され業務を拡大して現在に至っている。

右の写真は三菱重工の敷地内にある迎賓館の「占勝閣」である。名前の由来は1905年(明治38年)、宿泊された東伏見宮依仁親王が、鶴の港と呼ばれる長崎港と長崎の町を見渡し、「風光景勝を占める」と評されたことから「占勝」の2字を選び「占勝閣」と命名されたという。

昭和天皇はこの占勝閣に二度宿泊されたという話であった。一度は皇太子時代に戦艦土佐の起工式の時、そして戦後、昭和24年昭和天皇の九州御巡幸の折、宿泊されたそうだ。

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造船所を見学できる高台に登ってみた。広い敷地にドックや船台を見ることができる。巨大なガントリークレーンが立ち並んでいる中に、赤茶けた古いガントリークレーンがひとつだけ残されている。赤茶けたこのクレーンは戦艦武蔵が建造された第二船台のクレーンである。この第二船台でこの赤茶けたガントリークレーンによって戦艦武蔵は建造された。

今でこそ自由に造船所を外から見ることができるが、戦艦武蔵を建造している時代は、造船所が見えるようなところには高い壁が至る所に作られ、市内には監視の憲兵隊が対岸の山の中まで配置され、造船所を見たら巡回中の憲兵に連行されて厳しく詰問された。また造船所の前を通る船は造船所側の船室の窓はすべてカーテンをして見えないようにして航行することが義務づけられていた。戦争中の長崎は造船所の方を向いたら連行されるという不自由な生活を強いられていた。今日のように、自由に三菱造船所を外から眺めることができなかった時代を思うと平和の有難さをしみじみと感じる。

 

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三菱造船所を見ながら歩いてきたら、立神(たてがみ)というバス停に着いた。長崎港口は東側を女神といい、立神がある西側は男神とされている。西側には天門峰という切り立った岩山が連なっており、その切り立った岩山からこの地を立神と呼ぶようになったと言われている。立神まで三菱造船所が続いているが、立神道路開通記念に示されているように、立神は昭和32年7月以前は、道路がなく車も通れない陸の孤島であった。立神は船でしか行けない場所であった。

立神を過ぎて、トンネルを抜けると、西泊番所跡という石碑を見つける。ここは江戸幕府が長崎港警備のため1641年(寛永18年)陣屋を設けた場所である。西泊番所は対岸の戸町番所と共に1864年(元治元年)に廃止されるまでの200余年に亘り、佐賀鍋島藩筑前(福岡)黒田藩が国防の使命を果たしてきた場所である。

 

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西泊の町内を歩く。町内に神社がある。鳥居には天満宮と掲げてある。この西泊天満宮は、西泊番所の勤務にあたっていた福岡藩士が、太宰府天満宮の遥拝所として勧請したのが始まりとされる。石灯篭など多くを福岡藩氏が奉納しており、拝殿内にある額は1859年(安政6年)のものである。
西泊の町内を歩いていたら立派な石造りの建物を見つけた。国登録有形文化財の佐藤家住宅である。佐藤家住宅は主屋、木造別棟、木造付属屋、石造倉庫A,石造倉庫Bの5棟の建物からなる西泊発展の証となる建物である。幕末から明治中期にかけて建てられ倉は質倉として利用されていたようだ。

 

歴史文化探訪はここ西泊で終了した。時間は午前11時50分である。友達と食事をして帰ろうということで、水の浦の蕎麦処「芳水」に行くことにした。「芳水」は先月、地元テレビ局の美味しいお店紹介で放送された蕎麦処である。ここから水の浦まで歩いて行くとちょうど良い時間に着くことになるだろうと蕎麦を楽しみに歩いて行った。

「芳水」の蕎麦は期待通り美味しかった。今日の歴史文化探訪はお腹も満腹になり満ち足りた思いで帰宅した。