ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪ー福田 その1ー

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青点をスタートして矢印方向に進み赤点までのコース。距離3.51km、最高高度73m、最低高度2m、上昇高度106m、消費カロリー532kcal、天気晴れ、温度16度、湿度57%

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今回の歴史文化探訪の地は「福田」である。福田は日本の南蛮貿易時代の歴史上極めて重要な土地であることは知っていたが、歴史探訪で訪れることは今回が初めてで特に楽しみにしていた土地である。福田は長崎と山を挟んだ隣町である。1571年、長崎が開港され、以来長崎は鎖国時代の貿易港の役目を果たしてきた。福田は、長崎開港以前に、貿易港の役割を果たしてきた港である。歴史に"If"はないが、もし港が「長崎」に移らなければ、「福田」が日本の出島になっていたかもしれないという土地である。新たな発見を期待して興味津々参加した。

 

 

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集合場所の大浜公園に定刻に全員集合。「長崎開港以前、福田が果たした歴史的役割は極めて重要です。ところが現在、道路網が整備され福田は長崎市内のベッドタウンとしての開発が進み、現在の福田には歴史的景観はほとんど何も残っていません。だから、今日の歴史文化探訪は、昔この辺りは◯◯であったというような説明が多くなると思います。」という講師の説明で始まった。
大浜公園をスタートしたらすぐに大きなマンションが何棟も続いて建っている。このようなマンション建設のため海も埋め立てられたのではないかと思う。そのマンションと反対の108mの山を地元の人はか城の古趾(シロノコシ)と呼んでいるそうだが、昔は石垣があった場所がコンクリートで打たれてしまっている。確かに史跡の跡は何もない。

 

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ダンドン様(段遠様)

福田は古くは老手(オイテ)と呼ばれていたようだ。歴史に記録されるのは、1180年(治承4年)後白河法皇の家臣:平何某が肥前国老手の定使を任ぜられて下向したのが始まりとされる。その子供が家督を継ぎ、その地を福田と名づけ、自身も福田を名字とし福田平治を名乗ったとされている。。城の古趾を過ぎて山の方へ上ると小さなお堂がある。お堂の脇にはお釈迦様の仏像があり、中には弘法太子など5体の仏像がお祭りされている。この一帯は昔、源平の合戦が行われた場所で、戦いに敗れた平家の死者をこの地に埋葬したとの言い伝えがあり、この地は平家の墳墓の地である。その犠牲者の供養塔(石室)ことを地元ではダンドン様と呼ぶようだ。

 

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小浦波止場跡
1808年(文化5年)イギリスの軍艦(フェートン号)がオランダ国旗を掲げて入港し、役人を人質にして水、食糧を要求するという事件が起こった。この事件を受けて、長崎港の警備がより強化されることになり、その一環でこの小浦波止場も1809年大村藩によって築港された。異国船が来航した際には出船して警備に当たった。

 

 

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祐徳稲荷神社の案内に従って沿って山道を上る。休みながら頂上まで上ると御堂があった。祐徳稲荷神社佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の分霊を勧請しお祀りされたもので、商売繁盛の神様として福田地区の信仰を集めている。そして、この場所は福田城跡である。福田城の築城時期は記録もなく不明であるが、福田家21代/大和守忠兼が天正年間(1573〜1591)に築いたと思われている。遺跡調査の結果、本丸は東西10間、南北13間の規模であった。福田は武士が住む城下町であったようだ。眼下を見ると海が静かに横たわっている。当時の武士はこの景色を見たながら敵を警戒していたのだと思う。

 

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福田城跡を見て、次は西光寺という大きなお寺へ行く。この西光寺は江戸時代初め頃に開山したお寺である。江戸時代福田は大村藩に属し、大村藩は当初キリシタン大名であることから多くの領民もキリシタンであった。当時、福田にも多くのキリシタンが住み、福田には教会があった。天草の乱以降、キリシタンへの禁教令が強化されたことなどにより、大村藩キリシタンを改宗させ、寺院を建立し神仏への信仰を強化した。そのような状況で西光寺も建立された。

琴爪の墓

その西光寺の隣に「琴爪の墓」という案内板が立てられている。その案内板に従って進むと古い石塔があった。その古い石塔のお墓には地元の人よって線香が手向けられていた。案内板に「昔、お姫様のような綺麗な着物を着た娘が流されてきたのを漁師が拾い上げ、庄屋に告げて裏の畠の隅に埋葬した。ある月夜の晩、琴の音が聞こえるので不思議に思い何処だろうと探したところ娘を埋葬した場所であった。墓を掘って調べたら、その娘の指に琴の爪がはまっていた。このことから人呼んで「琴爪の墓」「琴姫の墓」と呼ばれている。」とあった。

墓石には「南無阿弥陀仏」を刻み、また、発見した日の安政3年5月11日を命日として刻んだとあった

琴姫の死を不憫に思った当時の人々の優しさを感じる物語である。それが、160年以上、今も線香が手向けられていることを思うと感動でもある。

 

福田の歴史文化探訪は、遺跡そのものが昔のものとして取り壊されていることも多くあり、寂しい気持ちになる反面、昔の人の優しさに触れる文化探訪でもあった。