ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪ー福田その2ー

 

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福田は南蛮貿易の港として歴史に名前を残している。九州の各藩は、南蛮貿易から大きな富を得ることができることから、南蛮貿易を希望した。日本に最初に来航した南蛮船はポルトガル船であった。南蛮貿易は富をもたらすが、同時にキリスト教の布教を許可することが求められた。長崎においては、平戸藩が最初にポルトガル船を受け入れたが、キリスト教の布教については否定的であった。藩主のそのような態度から、平戸藩ではキリスト教と仏教の衝突がたびたび発生するなど対立が生じたため、南蛮船は平戸を避け、キリスト教布教に好意的な大村藩が所領する港に入港することになった。そのような流れの中で、大村藩の福田浦に南蛮船が入港することになった。

その流れについて福田支所の前に立てられた「福田開港の由来」は次のように述べている。

福田開港の由来
「天文19年(1550)9月、フランシスコ・ザビエルは平戸に到着したが、その頃すでにポルトガル商船は平戸に碇泊していて、平戸はポルトガル貿易を独占して繁栄していたという。しかるに、永禄元年(1558)に平戸の仏教徒キリスト教徒の対立は、次第に熾烈となり、種々の紛争を生じたので、永禄4年(1561)耶蘇会の長老コスメ・デ・トレスの命を受けて平戸に来たルイス・デ・アルメイダは、他に良港を探し求めた結果、大村藩所領の横瀬浦を発見した。横瀬浦には、会堂や住宅が建設され、ポルトガル船が入港し、にわかにこの港は繁盛した。大村純忠横瀬浦にて洗礼を受け、ドン・ベルトラメウの教名を受け、日本最初のキリシタン大名となった。しかし、やがてキリスト教反対党の陰謀反乱によって、横瀬浦は焼打ちにあい、ポルトガル船は一時やむなく再び平戸に入港した。その後大村純忠は勢力を回復し、その懇望により 永禄8年(1565)ポルトガル船は大村領福田浦に入港することとなった。その頃、福田浦の地頭は福田左京であった。大村純忠はコスモ・デ・トレスに宣教師の派遣を乞い、その結果ベルショール・デ・フィゲレイドなどが福田浦に派遣され布教に当った。純忠はたびたび福田浦を訪れ、教会を建て、布教に力を尽くし、各地より信者多数がここに来集した。以来、永禄9年、11年、12年、元亀元年とポルトガル船はここに入港し、貿易と布教の拠点としてこの港は繁栄を続けたが、福田浦は必ずしも良港とはいいがたく、宣教師や船員は近くの地を探し回った末、元亀元年(1570)長崎を発見し、以来ポルトガル貿易は長崎に移った。しかし、長崎開港以前、福田の果たした役割は、日本の近世対外交渉史上極めて重要であったといえよう。」

福田浦は、外洋に面しており波風の影響を受けやすいという地形上の欠点があり、碇泊していても、少し風が吹けば遭難の危険がある港であった。この福田浦は碇泊地に適さないと判断したポルトガル人は小舟を出して近辺を調査し、入江の奥に水深も深い波静かな停泊地を見つけた。そこが長崎である。当時の長崎は小さな漁村であったという。ポルトガル人は大村純忠にこの長崎に港を開くことを進言して、1571年に長崎港が開かれ、南蛮船の寄港地が福田から長崎へ移ることとなった。

 

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福田には創建年代は定かではないが、古くから福田天満宮が鎮座している。その場所は元々は平地にあったが、昔、高波のため三度も水に浸かることがあり、現在の高台に移転したと言われている。

 

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左:高波よけの石垣跡    右:高台にある福田天満宮からの展望

福田はしばしば高波に襲われて水に浸かった。福田天満宮が元々はあった平地には、1680年頃に造られた高波よけの石垣の跡が残されている。高台に建立された本殿から福田が一望できる。福田は外洋に面しているため昔から高波などの被害を受けやすい土地であったようだ。

 

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海岸線まで下りていくと、4の台場跡という案内板を見る。この場所は田子島台場跡である。嘉永6年(1853)ロシアのプチャーチンが軍艦を率いて長崎に来航、翌年には英国の東インド艦隊が入港するなど、長崎港周辺の警備強化が必要となり、1854年大村藩はここに田子島台場を築き警備にあたった。田子島台場の海岸線一帯は昔から松が植えられ、「千本松原」と呼ばれていた。この千本松原も高波よけのために植樹されたものである。

 

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福田の西端は「長崎サンセットマリーナ」というヨットハーバーなどを擁したマリンレジャー施設になっている。そこから外洋に目を向けると大海原が広がりその先は東シナ海である。南蛮貿易時代、ポルトガル船は東シナ海を通ってここ福田を目指した。ここ福田の海岸に立って、ここに南蛮船が来航したことを思うと歴史がとても身近に感じられる歴史散歩となった。

秋の歴史文化探訪は今回が最終回であった。この歴史探訪で様々な事実を知ったことも有意義であったが、受講者のみなさんが熱心であったことも刺激になった。また、機会があったら参加したいと思う。