ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「いま、なぜ魯迅か」を読む。

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佐高信さんの「いま、なぜ魯迅か」を読む。前書きには『「会社国家」であり「官僚国家」でもある日本では、「精神の奴隷」が主人の意向を先取りする、いわゆる忖度が大流行りである。まじめ主義者と多数に従ういい人ばかりのこの国に、今必要なのが魯迅の「批判と抵抗の哲学」だ。』とあった。


魯迅は1923年12月26日に北京女子高等師範学校 で講演を行った。その時の講演「ノラは家出してからどうなったか」で、ノラは「理屈から言えば堕落するか、戻ってくるか」の二つの路しかない、と言っている。そしてこう、続けているのである。


「金銭ー高尚な言い方をすれば、つまり経済ですが、それが一番大切です。もちろん、自由は金で買えるものではありません。しかし、金のために売ることはできるのです。人類には、ひとつ大きな欠点があります。絶えず腹が減ることです。この欠点を補うためには、傀儡にならぬようにするためには、現在の社会にあっては、経済力が最も大切なものとなります。第一に、家庭内においてまず男女平等の分配を獲得すること、第二に、社会にあって、男女平等の勢力を獲得することが必要です。残念ながら、その権力はどうやったら獲得できるか、ということは、私には分かりません。やはり闘わなければならない、ということが分かっているだけであります。そして、それには、あるいは参政権を要求するより、もっと激烈な戦闘が必要であるかもしれません。」と述べている

この講演は、約100年前に、中国で行われた講演である。しかし、その時の問題提起は、現在の日本にあっても、まだ解決されず、社会の不条理として残されている問題点である。現実問題として、コロナ禍で女性の自殺が増加したことは女性の経済力の弱さの現れであることを思うと、経済力の男女差が存在する社会をこのまま黙認するわけにはいかない。闘って闘って闘い抜いて、社会をつくりかえなければと思う。

この本の中で、魯迅ニーチェの「超人」思想に惹かれたと書いてあった。魯迅ニーチェから影響を受けたようだ。「愛と悩みーニーチェの言葉の中」を開くと、魯迅の言葉と見まがうニーチェの言葉が並んでいるということであった。その言葉を読んで勇気をもらった。
○ 悪とは何かー弱さに由来する一切のもの。
○ 私は人間ではない、ダイナマイトだーーー。
○ どれほど深く悩みうるかということが、ほとんど人間の位階を決定する。
○ 人間だけが深く悩む、だから彼は笑いを発明せざるをえなかったのだ。
○ 身振りの激情は偉大の属性ではない。およそ身振りを必要とする者は、贋物である。ーーーあらゆる絵画的人間を警戒せよ!
○ 君たちが絶望していること、そこには多くの尊敬すべき点がある。なぜなら、君たちは屈服することを学ばなかったからだ。
○ 抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件に受け入れることは病理に属する。
○ 生きるとは何のことかー生きるとはー死にかけているようなものを、たえず自分から突き放して行くことだ。


毎日のニュース番組を見て、この国は何処に行こうとしているのかと抗議の声を上げたり、不安に思ったりすることも多いし、また政治家や有力者の言動に猜疑心を膨らませたりすることも多い。歳だけ取って、いっこうに落ちつかない自分を見て、もう少し成長したらよかろうにと思うこともあるが、それが健康のしるしと言われているみたいで安心する。また、社会のことを何も考えないことは死にかけていることであり、死にかけている自分を常に突き放して行くべきという言葉は生きる指針にしたい。

魯迅夏目漱石の影響を受けた。逆に魯迅に影響された人には中野重治竹内好むのたけじなどがいる。

むのは93歳の時に出した「戦争絶滅へ、人間復活へ」で「戦争をなくすということは、結局、国をなくすということになる」と喝破している。そして、国境というのは、国家が勝手につくったものにすぎません。その国家ができてから、戦争というものが始まったのです。」と続けている。同書によれば、憲法9条のような規定はなくとも、憲法で戦争反対、世界平和を力説している国は、コスタリカをはじめ、38ヵ国あるようだ。世界ニ百ヵ国の中で、まだ4分の1にならないとはいえ、確かな勢力を占めていると書かれている。

魯迅を敬愛するむのは、魯迅の言葉を自分なり消化して、次のように問いかけていると書かれてあった。「行く先が明るいから行くのか。行く先が暗くて困難であるなら、行くのはよすのか。よしたらいいじゃないか」
死ぬまで覚悟が求められている