ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「人権がわからない政治家たち」を読む その1

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師走の忙しい毎日の中、面白い本にであった。

小林節氏の著書「人権がわからない政治家たち」である。
この本は、小林先生がさまざまな現実の政治的課題について民主主義と人権を守るという観点から評価を加え、解決策を提案したものである。私自身、どう考えるべきか判断に迷う課題についても、理路整然と何が問題かを明確にして、法学的見地から解決策を述べられていた。ここで述べられている小林先生の考えは法学の基礎知識に基づいた学問的裏付けのある判断である。快刀乱麻を断つという言葉があるが、まさにその言葉通りの説得力のある解決策が語られていた。まだ一部しか読んでないが、本を読んだ後の読後感は、心の中のモヤモヤを吹き飛ばすような爽快な気分になった。

私は、日本の政治の劣化は、間違いなく日本に世襲議員が多く誕生していることにあると思っている。日本の将来を考えると、早急に世襲議員を制限する法律をつくるべきと私は思う。しかし、そのような意見に対して、「世襲議員参政権がある。また、世襲議員といえども現に選挙で当選しており、民主的正当性のある議員に対しての逆差別である」という意見も聞く。そのような反対意見を言われると、私はもうそれ以上は反論できないわけだが、この著書において、小林先生は「議員の世襲制限は当然だ」というタイトルで世襲議員について次のように語っていた。

『国会議員の職務の本質は、本来的に利害の対立と矛盾が存在する全国民の間に、国家権力を用いて国家の有限な資源を強制的に配分する作業に参加することである。だから、議員を選出するシステムはすべての国民にとって「公平」であることが求められている(憲法14条 44条)。そういう観点から、特に自民党内に多数存在するいわゆる「世襲」議員が法の下の平等に反するのではないか?と問題にされているが、世襲議員が不当な存在であることは明白である。
まず、選挙とは、事実として、莫大な費用と人力が必要な事業である。だから志と能力はあっても無名の新人が立候補しようと考えても、落選した場合の経済的・社会的損失を考えたら、容易に立候補できるものではない。その点、世襲議員はいわゆる「地盤」(集票組織)、看板(知名度)、鞄(選挙資金)が先祖伝来で揃っており、ほぼ確実に当選できる上に、落選しても生活は守られている。だから、世襲議員は大きな権力を共有する地位を容易に入手・維持できる特権的な立場にある。つまり憲法が禁じる「門地」(家柄)による差別(14条、44条)である。
さらに、世襲議員にはもう一つ本質的な問題がある。それは、世襲議員の「貴族」化である。中世、近代の階級社会の悲惨な体験を経て、人類は、階級のない社会に到達して現在に至っている。人間の平等と民主政治である。そこにおいて、議会は当然に多様な国民各層の公平な縮図でなければならない。ところが世襲議員は代々の特権階級の中で育った人間になってしまっている。
多くの世襲議員と近くで接して痛感することは、彼らは庶民の感覚はわからない・・・・という致命的な事実である。国民の最大多数の最大幸福を追求すべき議会の構成員の多数が庶民感覚を欠いていては、議会が正しく機能するはずがない。』

小林先生は、選挙は公平であることが求められるが、世襲議員はその公平性において明確に不当であると述べられていた。
辻本清美さんも、先日のネット番組の中で次のように述べていた。「政治家になって、活躍してもらいたいと思う優秀な人は多い。しかし、そのような優秀な人を政治に誘っても誰も参加しない。参加したいが、選挙にかかるお金を都合できないために参加しない。落選したら多額の借金だけが残る現在の選挙制度では優秀な人は参加できない」と辻元さんも言っていた。

地盤・看板・鞄を持った世襲議員しか政治家になれない国ではなく、地盤・看板・鞄がなくとも政治家を志したい人が、政治に参加できるようなシステムを早急に作るべきと思う。
他の国でも世襲についてはさまざまな制限が設けられているようだ。選挙の公平性から、例えばイギリスでは、世襲議員の立候補は先代の地盤での立候補は許可されないという規定が設けられているようだ。日本も他国の例を参考にしながら早急に世襲制限のシステムを作ってほしいと願う。

世襲議員の制限は選挙の公平性という観点から見直しが必要だが、今の自民党政権が続く限りそのような見直しはしないだろう。日本の将来を危うくしないために、一日も早く自民党を下野させなければと思う。