ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「もう親を捨てるしかない」を読む

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宗教学者である島田裕巳氏の著書「もう親を捨てるしかない」を読んだ。

介護殺人と呼ばれる悲惨な実態を直視しながら、島田氏は次のように述べていた
『「介護疲れ」や「将来への悲観」から介護殺人と言われるような事件が毎年40件ほど発生している。日本における殺人事件は1年間で400件ほどあり、その10分の一が介護殺人ということになる。介護殺人は子供が介護していた親を殺し、自らも死のうとするケース、「老老介護」と呼ばれる老いた夫が介護していた妻を殺したり、その逆のケースなど様々なケースがある。
このように、毎年、介護殺人は繰り返されているものの、その数が多いため、あまり詳しい報道もなされない。さらに、その陰には、介護殺人には至らないにしても、介護に疲れ、それに悩んでる人たちが莫大な数存在している。そうした人たちは、少しでも状況が変われば、介護殺人に追い込まれる可能性がある。

介護は実に大変なことである。赤ん坊を育てる育児も大変で親はそれにかかりきりになるが、赤ん坊の場合には、成長するにしたがって、世話は楽になる。何より子どもの成長に喜びを感じることができる。
ところが、介護となれば、歳を重ねるにつれて、世話は次第に増えていく。認知症が重くなれば、介護する人間の生活は完全に振り回される。徘徊などということも起こる。しかも、介護される側が回復し、昔に戻ることは期待できない。介護に全てを費やせば、仕事などしていられないし、まともな生活は送れない。仕事がなくなれば、生活は困窮し、多くの人間達がするように、死を選ぶしかなくなっていく。

では、介護殺人に至らないためにはどうしたらいいのだろうか。究極的には、親を捨てることである。そんなことを言い出せば、「人非人」であるという非難を覚悟しなければならない。確かに、介護が必要になった親を捨てるなどという行為は、相当に残虐なことであるように思える。
しかし、介護殺人に至った人々の場合も、介護を必要とする親が邪魔になったから殺したわけではない。殺したくはないが、状況があまりに過酷で、生活が成り立たなくなり、精神的に追い込まれていったからこそ、やむを得ず親を殺して、その罪を背負うために自分も死のうとしたのである。

親を捨てていれば、介護殺人に至ることはない。親も人生の最後に殺されることもない。それまで前科のいっさいない子どもが殺人者になることもないのだ。
今私たちは、親を捨てることを真剣に考えなければならない時代に立ち至っている。そうしなければ、過酷な現実を生き残ることができなくなっているのである。

 

親は子供に捨てられるのだとすれば、親の方はどうしたらいいのか。それはもう、「とっとと死ぬ」ことである。究極の「終活」は「とっとと死ぬ」ことに尽きる。死んでしまえば、「子供には迷惑をかけたくない」という高齢者の思いも満たされるし、事実、子供も助かる。しかし、現在において「とっとと死ぬ」ことを難しくしている要因がある。
その一つが病院での延命治療である。
最近刊行された、宮本顕二・宮本礼子著の「欧米に寝たきり老人はない 自分で決める人生最後の医療」という本ではそうした事情が綴られている。日本では自分では食事が摂れなくなった高齢者に対して点滴や経管栄養で水分と栄養の補給を行い延命させる。ところが、スウェーデンでは点滴も経管栄養も行われず、患者の食べたり飲んだりする能力に任されている。そうなると患者は栄養が低下しても脱水になっても苦しむことなく楽に死ねる。スウェーデンでは日本のような延命治療は行われない。

尊厳死 外国に見る法制化
2014年、アメリカの29歳の女性が安楽死をして大きな話題になった。話題になったのは、彼女が自ら死ぬ日を決めそれを事前にネット予告したからである。その女性は末期の悪性脳腫瘍と診断されていた。回復の見込みもなく、また頭痛にも苦しめられていたため死を選択したのである。彼女は世界中が注目する中、医師から処方された薬物を服用して亡くなっている。尊厳死の法制化が実現されていない日本では考えられないことだが、アメリカでは安楽死を認めている州がある。

さらに「とっとと死ぬ」ことの選択を広げ、それをより容易にしているのがオランダである。オランダでは、2002年に安楽死を認める法律が制定されている。オランダでは公的な健康保険に入る際に、「ホームドクター」の契約しなければならない。この「ホームドクター」と契約している人間が不治の病にかかり、延命治療を望まない、あるいは中止して欲しいと望んだ時には、ホームドクターが本人の意思に従って安楽死を実現する方向に動いてくれる。

ここまでは、一般的に考えられている安楽死尊厳死ということになるが、オランダの場合には、さらに、その先まで行っている。というのも、本人が不治の病にかかったわけでもなく、なおかつ余命宣告を受けたわけでもなくても、「もう生きるのは嫌だ」と思えば、ホームドクターが死なせてくれるからである。これは、いわゆる安楽死とは異なり、「自殺幇助」である。もちろん、本人の意思は変わることもあるので、ホームドクターだけでなく、他の医師にも面接してもらうことになる。それでも、本人の意思が固ければ、致死量の麻薬、麻酔薬、筋弛緩剤などを投与され、苦痛を感じることなく死んでいくことができる。ホームドクターはそれを最後まで見届けるのである。

世界的に安楽死を認める傾向にある現代
安楽死については、それを「消極的安楽死」と「積極的安楽死」に区別することができる。「消極的安楽死」の方は延命治療の中止によるものだが、「積極的安楽死」の方は致死薬を与えるもので、オランダの場合はまさにこれにあたる。しかも、不治の病にかかっているかどうかは関係がない。

さらに、アメリカやオランダでは、安楽死の対象になるのは老人や高齢者には限られない。年齢が若い人間でも、本人の意思が固まっていれば、安楽死が可能なのである。そして、オランダでは、病と関係なく、死にたいと思えば、死なせてくれるのである。尊厳死法案さえできない日本では、現状において、とてもこうした体制が確立されるようになるとは思えないが、世界では、アメリカやオランダの他に安楽死を法的に認めているのはスイス、ベルギー、ルクセンブルクである。安楽死を認めるということは、個人の意思を最大限に尊重するということであり世界全体が特に先進国ではその方向に向かっているという現実がある』

 

センセーショナルな内容であったが、終活時代にある私にとって考えさせられる内容であった。特に、「とっとと死ぬ」ことについて高校時代の恩師の最後を思い出した。恩師は癌を発病し、さらに透析治療を受け闘病していたが、ある時、透析治療を中止することを選択して意思的に人生の幕を閉じた。「最後まで、彼は彼らしく、自分の人生を自分の思う通り生きて逝ってしまいました」と奥様がおっしゃっておられたことを思い出す。恩師のように死ぬ時まで、自分の思い通りに最後まで生きて逝きたいと思う。