ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「脳力(ノウリキ)のレッスンⅤ」を読む

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寺島実郎氏の「脳力のレッスンⅤ」を読んだ。「能力のレッスン」は2002年からの寺島氏が時代を見つめてきた論稿をまとめたもので、レッスンⅤは2014年から2018年までの安倍政権の5年間を考察してきた論稿をまとめたものである。そして今回は「人はなぜ戦争をするのか」ということを表題として掲げている。

この本の中に、「安倍政権の戦争認識ー戦後70年談話再考」という項目があった。
『戦後を生きた日本人は、筋道立てて日本の戦争を考えたことはあるのだろうか。いまさら戦争に至った理由や戦争責任など考えても仕方がないとして、「一億総ざんげ」という曖昧な空気のまま、思考停止となっている。歴史教育においても、近代史に真剣に向き合う気迫もなく、戦後日本の中学・高校での歴史教育も、多くの場合、縄文弥生から始まって幕末維新で時間切れとなり、近代史への合理的認識に踏み込まないままに終わっている。

フロイトのいう文化力を形成する知性の中核は歴史認識である 。「歴史とは過去と現在の対話」であり、民族の歴史を時間軸の中で客観視する歴史認識を踏み固めることが、その民族の文化力を示す「民度」と言える。

戦後70年の今、我々日本人は、日本人の知の基盤、とりわけ「戦争をどう総括しているのか」という歴史認識が問われている。そこで、現在の日本を統括する安倍政権の歴史認識を確認しておきたい。それは2015年の戦後70年談話に凝縮されている。戦後70年談話のための「有識者会議」なるものを立ち上げ、都合のよい御用学者と不勉強な経済人を並べ、その報告をも参考にした談話だったのだから、ある意味では「現代日本エスタブリッシュメント」による歴史認識ともいえる。

第一次世界大戦から第二次大戦に至る展開について、70年談話は次のように述べる。「第1次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。・・・人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。当初は日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムはその歯止めたりえなかった。こうして、日本は世界の大勢を見失っていきました。」
もっともに聞こえるが、この認識の重大な欠陥に気づかねばならない。

戦後70年談話では、日本も国際協調路線に進みだしていたが、世界恐慌が起こり「ブロック化」の中で「孤立感を深め」た日本が「行き詰まり」を「力の行使で解決しよう」として戦争に至ったかのごとき、受け身の日本という認識が示され、「やむを得なかった」というニュアンスが込められている。しかし、この捉え方は的確ではない。

日本は自らが欧米列強の植民地にされるかもしれないという緊張の中で「開国・維新」を迎え、富国強兵で自信を深め、日清・日露戦争を戦勝で乗り切ったあたりから、夜郎自大に陥り、「親亜」(アジアへの共感)を「侵亜」(日本によるアジア支配)に反転させ、自らが植民地帝国と化していった。この過程こそ戦争への誘導路として認識されねばならないのである。

日英同盟という集団的自衛権を根拠に山東利権を求めて第一次大戦に参戦した日本が、1919年のベルサイユ講和会議に列強の一翼を占める形で参加するまでの5年間を注視すべきである。この5年間における、1915年の「対華二十一ヵ条の要求」、1917年のロシア革命に対する「シベリア出兵」と植民地帝国に豹変していく過程こそ、やがて戦争の災禍に巻き込まれていくまさに転機であった。「仕方がなかった」「日本だけが悪かったわけではない」などと受け身の外部環境要因だけで戦争を語ってはならない。

もし、100年前の「運命の5年間」の日本に、世界史の潮流を見抜き、欧米追随の路線ではなく、アジアの自立自尊に資する日本の選択を構想できる指導者がいれば、日本の運命も変わっていたというのが私の見解である。

1924年11月、孫文は、 神戸での講演でこう述べている。「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質も持っています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです」孫文は日中連携論者であり、辛亥革命に向けて彼を支援し、心を通わせた日本人も多かった。日本が孫文の警鐘に聞く耳をも持たなかったことは、その後の歴史が示している。』

寺島氏の論稿を読み、寺島氏に賛同する。当時、アジアは欧米列強の植民地の草刈り場になっていた。そういう中、日本は、五族協和大東亜共栄圏、八紘一宇などという構想を掲げ、東南アジア諸国を欧米帝国主義国家から解放し共存共栄の広域経済圏をつくりあげると主張していたが、中身はなく、対アジア侵略戦争を合理化するためのスローガンでしかなかった。日本が道を間違えたのは、欧米列強模倣の力比べに参入し、新手の帝国主義国家としての路線を歩み出した「運命の5年間」が間違いの始まりであったように思う。都合が悪いことであっても事実は事実として認めるしかない。真実に目を閉ざすものは何度も同じ過ちを犯す。