ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪 「水の浦 飽の浦地区」を歩く

青点をスタートして矢印の方向に進み赤点までの往復コース。距離2.22km、最高高度15m、最低高度1m、総上昇高度10m、消費カロリー329kcal、天気雨、温度15度、湿度91%

令和4年春の公民館講座「歴史文化探訪」が始まった。この講座は本来フィールドワークで行われるが、第一回目は教室で、今回の歴史文化探訪の狙いや注意点の説明を受けて、その後、足馴らしを兼ねて公民館近辺の「水の浦、飽の浦地区」を巡ることになった。

 

公民館を出てしばらく進むと、三菱重工業長崎造船所の正門に着く。正門のすぐ横に「長崎製鉄所跡」という石碑が建てられている。1853年ペリーが4隻の黒船で浦賀に来航して、翌年日米和親条約が締結された。幕府は海軍伝習所を設立して蒸気船の操艦技術の習得に努めるとともに、蒸気船の修理などを行う施設の必要性に迫られ、飽の浦に1861年長崎製鉄所を開設した。維新後長崎製鉄所は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治20年(1887)三菱社に払い下げされ、今日に至っている。飽の浦の海岸一帯はその後埋め立てられ工場地帯になっていった。

 

 

三菱長崎造船所の周りを構内に沿って歩いていくと、いくつかの文化財を外から眺めることができる。屋根の上に見える大きなクレーンは明治日本の産業革命遺産に選ばれたジャイアント・カンチレバークレーンである。このクレーンは明治42年(1909)に竣工した日本で初めて建設された電動クレーンである。150トンの吊り上げ能力を持ち現在も現役として活躍している。右のレンガ造りの建物は明治41年(1908)に長崎造船所に日本で初めて完成した船型試験場である。試験水槽の長崎131m、幅6.1m、深さ3.7mである。

 

釛山恵比須神社はもともと長崎の恵比寿町に祀られていた恵比須様を1663年に小柳五郎左衛門がこの地に移して祀った。商売繁盛などに霊験灼たかという評判が立ち多くの信者を得た。境内には江戸、京都、大阪、堺、長崎の五箇所の商人から寄進を受けて作られた石灯籠が奉納されている。

 

教会の壁は白いのが一般的であるが、ここ飽の浦カトリック教会はピンクで彩られている。とても可愛らしくて、このピンクの教会はよく目立つ。この教会のクリスマスのイルミネーションは一見の価値という話であった。教会からしばらく行くと、長崎で一番急すぎる坂という急な坂があった。この坂は馬力がない車は上れないほど急な坂であるらしい。電動自転車で上っても大変らしい。

 

飽の浦公園の入り口に荒木宗太郎宅跡という石碑が建てられている。その昔、この地は月見の名所であった。今は埋め立てが進み、海岸は遠くなっているが、昔はこの公園の近くまで海が迫り対岸の彦山に上る月を愛でる絶好の場所であった。この地で秋の中秋の名月を鑑賞していたところから秋の浦と呼ばれ、それが転化して飽の浦となったという。

荒木宗太郎は16世紀末期の朱印船貿易商である。元禄元年(1592)、秀吉より朱印状をうけると、安南(ベトナム)、シャム(タイ)方面との交易を行い巨利を得たと言われている。1619年安南国王の外戚の娘(ワウカクトメ)を妻にもらった。荒木家や長崎の町人は新妻をアニオーさんと呼んだ。(安南語で王女の意味であるアニヨンが訛ったもの)アニオーさんの長崎入りの際、長い長い派手な花嫁行列があったと今も伝えられている。荒木宗太郎は飽の浦を別荘として使用したと言われている。

 

飽の浦の隣町は水の浦という場所である。この場所は湧水が多く出ることから、この浦を水の浦と呼ぶようになったと言われている。現在でも井戸や湧水の多い地区である。水の浦は多くの船が水を補給していた場所である。長崎市は市街地の7割は斜面市街地である。水の浦も海岸からすぐに斜面地になる。その山手の方は急な傾斜の階段が続いている。ここ水の浦には水鳥号と名づけられた斜面移送システムが設けられている。高齢者を中心とした交通弱者が、斜面道路を安全かつ快適に移動できるよう二人乗りの懸垂型乗り物が設けられ、住民の強い味方になっている。

 

歴史文化探訪はお昼前に終了した。水の浦には美味しい蕎麦所がある。そこでお昼にしようと友達と合意。そのお店は人気店で、遅れるとすぐに満席になるので急ぎ足でお店に向かう。急いだ甲斐あって無事に入店。定番の定食を注文する。期待通りの美味しさでつい嬉しくなる。今日の歴史文化探訪は美味しい昼食にも恵まれて大満足であった。