今回のコースは長崎市内の中心部を歩くコースである。江戸時代、九州の片田舎であった長崎に出島が築かれて以来、長崎は貿易の中心地となり多くの人が長崎に来て様々な活躍をした。今日の歴史文化探訪でも長崎で活躍した先人に会えるのを楽しみにしたい。
今日の集合場所は丸山公園である。丸山公園があるここ丸山は江戸時代から花街として賑わった場所である。長崎の丸山は、江戸の吉原、京都の島原と共に日本三大花街と呼ばれるほど賑わった場所である。特に丸山の特徴は日本人だけにとどまらず、唐人やオランダ人の姿も見られ丸山は国際的な花街であったと言われている。
この公園の一角に坂本龍馬の像が立っている。坂本龍馬は、勝海舟のお供で長崎に初めて来て、その後長崎の料亭で後藤象二郎と会談したことが大きな転換になったと言われている。坂本龍馬は何度も長崎を訪れているが、来崎した時は、同志や文化人とよく丸山に遊んだと言われている。丸山の史跡料亭花月には、坂本龍馬がつけたと言われている床柱の刀傷が残されている。
丸山公園から梅園天満宮へ行く。梅園天満宮は丸山町の鎮守神で、1700年(元禄13年)丸山町の乙名である安田治右衛門によって創建された神社である。
安田治右衛門は天神様の信仰が篤く、自宅の庭に天神様を安置して日々お参りしていた。ある日、治右衛門は暴漢に襲われ左脇腹を槍で突かれ重傷を負った。周囲の人によって助けられて治療を受けると、服は血で真っ赤に染まっているが身体には傷ひとつない。これは天神さまの御加護のおかげと思い庭の天神様に詣でると、天神様の左脇腹に傷があり血が流れていた。人々は驚き、以来この天神様を「身代わり天満宮」と呼ぶようになり、多くの参拝者が訪れるようになったようだ。
ここは、なかにし礼さんが書かれた小説「長崎ぶらぶら節」の舞台になった場所でもある。境内の一角にはなかにし礼さん直筆による「長崎ぶらぶら節」の石碑が建てられている
「身代わり天満宮」を後にして、市指定史跡である「中の茶屋」跡地へ行く。ここは江戸時代花街として賑わった長崎丸山の有名な茶屋の一つである。また、中国人は永遠の隠れ家を意味する「千歳窩」と呼んだことから千代の宿とも呼ばれていた。長崎はじめ全国の文人墨客、唐人などが訪れて賑わった。ここは、幕末期に作られた地域民謡「長崎ぶらぶら節」の中に「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と謳われている場所である。
この大楠は大徳寺の大楠と呼ばれる県指定天然記念物である。樹齢約800年と推定され、幹周り12.55m、根周り23.35mの長崎市で一番大きな楠と言われている。大徳寺は廃寺となって、今はない。大楠の先に鳥居があってその鳥居には長崎県ではなく長崎府と刻まれている。府は明治元年頃に置かれた行政単位で当時全国で10の府が置かれたようだ。その後、東京は都となり、大阪府、京都府以外の府は県に置き替えられたらしい。ごく短い期間であったが、長崎が大都市として認知されていたことを示す貴重な証拠かもしれない。
大徳寺の大楠を見学して、その隣にある長崎小島養生所跡資料館に行く。1853年ペリーが浦賀に黒船と共に来航し、翌1854年日米和親条約を締結して開国した日本は近代化の必要に迫られ、多くの外国人を教官として招聘した。ポンペは、1857年(安政4)28歳の時、医師として来日し、松本良順の協力を得て日本人に対する医学伝習を開始した。ポンペは医学伝習をしながら患者の治療と予防に尽力した。1859年(安政6)ポンペの念願であった病院建設が幕府によって認められ、1861年(文久元)、この地に日本最初の近代西洋式病院が開設され、ポンペは患者の治療にあたると共に、併設された医学所において基礎から臨床までの体系的な近代医学教育を行った。「医師は自分自身のものではなく、病める人のものである」というポンペの言葉は、長崎大学医学部の校是とされ、今日になおその精神が継承されている。ポンペは1862年(文久2)予定した講義の全過程を終えてオランダに帰国した。ポンペは5年の任期中に、後に日本の医学の発展に大きく貢献する多くの人材を育成したことから、日本近代西洋医学教育の父と称されている人である。
長崎小島養生所跡を見学して、福建会館へ行く。福建会館は1868年(明治元年)に福建省出身者の会所であり、媽祖神を祀る天后堂が建てられている場所である。ここには平成13年、上海市から日中友好の印として寄贈された中国革命の父と言われる「孫文の銅像」が置かれている。孫文は長崎に馴染みが深い方である。長崎は孫文の無二の親友である梅屋庄吉が住んだ町である。二人の関係は長崎人の誇りである。
今日の長崎歴史文化探訪も新しい発見があった。坂本龍馬、ポンペ、松本良順、孫文、梅屋庄吉など、ここ長崎で日本の近代発展、アジアの近代発展に尽力した人の足跡を辿り、その精神に触れることができたのは感激でもあった。歴史文化探訪を通じて知る古人の歩みは私たちの未来への羅針盤でもある。