ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪 その4 「出島表門橋から大音寺」を歩く

S点をスタートしてG点までの市街地コース。距離3.4km、最低高度3m、最高高度28m、総上昇高度19m、消費カロリー494Kcal、天気曇り、温度21度、湿度78%

 

今日の歴史文化探訪の出発点は出島表門橋である。長崎は1571年に開港され、多くのポルトガル人が町中に住み南蛮貿易キリスト教布教の中心として発展していった。そういう中、1634年(寛永13年)幕府はキリスト教禁教令を徹底するため、長崎の有力町人25名に、市内に雑居していたポルトガル人を収容するための収容施設の建設を命じ、1636年(寛永13年)に完成したのが出島である。完成後、貿易に関係ないポルトガル人とその妻子(日本人との混血を含む)をマカオに追放し、残りのポルトガル人を収容したのが出島の始まりである。

出島は本来、海の中に造られた築島であったが、明治以降の港湾改良工事によって周辺が埋め立てられ、また中島川の変流工事で出島の一部が削られるなどしながら、現在は、中島川に接する形で陸地の一部となり、現在では島の面影は全くない。その出島を、海で囲まれた江戸時代の姿に復元しようというプロジェクトが長崎市によって進められている。完全復元は2050年予定でまだまだ先であるが、その前に出島と陸地との間にかかっていた橋を再現する出島表門橋の復元はさまざまな困難を乗りこえ、2017年に完成した。

出島表門橋の案内によると、当時の出島に架かる橋は4.5mほどの短い石橋だったようだ。明治以降の護岸工事により出島との間は30mに広がったため、当時の橋と同等のものを復元することは不可能になった。現在の川幅の30mの石橋を作ることは技術的に可能だが、出島は国指定史跡なので橋の架橋のためとはいえ、橋の土台を出島に設置する許可が得られず石橋の架橋は不可能となった。そこで、出島に負担をかけない最新式の技術でできたのが、現在の出島表門橋である。30mの橋にもかかわらず途中に橋脚もなく、橋の周りの景観を損なわないように、橋の上部に構造物を設けず、陸地側だけで橋を支え、てこの原理で出島側にはほとんど重力がかからない設計になっているようだ。昔の橋の再現はできなかったが、景観に配慮した素晴らしい橋が架かって嬉しい。

 

出島から進んでくると、立派な黒漆喰の商家建築が目に入る。海産物商の小野原本店の店舗とお菓子司岩永梅寿軒の店舗である。幕末から続いた建物が大正時代に火災で消失したことを受けて、その経験から黒漆喰の商家が建築されたようだ。

黒漆喰の商家を見ながら中島川へ行く。中島川は長崎市内を流れる小さな川であるが、日本一の記録を三つも持つなかなかの川である。記録の一つは眼鏡橋という日本で最初に石橋がかかった川である。二つ目は日本で最初に鉄橋がかかった川である。三つ目は日本で最初にコンクリート橋がかかった川である。さらに中島川は原爆落下の目標になった川でもあるが、運命のいたずらかその目標は外れた。

 

中島川沿いの遊歩道には紫陽花がたくさん飾られていた。アジサイ長崎市の花になっている。毎年この時期に「オタクサ祭り」と呼ぶアジサイ祭りがおこなわれていた。コロナでお祭りは行われていないが、今年もアジサイが飾られている。コンペイトウ、ダンスパーティ、歌合せ、フクロウ、佳澄、ごきげんようなどアジサイのいろんな名前が表示されてあるが多くて覚えられない。アジサイを見ながら散策するのも楽しい。


長崎はキリスト教の町であったが、キリスト教禁教令が行われると同時に、仏教の布教が幕府の支援を受けて大々的に行われた。長崎には中国式の仏教寺院を含め多くの仏教寺院がある。長崎三大寺の一つである海雲山/晧台寺へ行く。ここには市内唯一の大仏様が鎮座しておられる。この大仏様は1677年(延宝5年)に造られた高さ3.4mの毘盧遮那仏(ビルシャナブツ)である。毘盧遮那仏は、大宇宙の中心に座してそこから全宇宙を照らす仏様であるといわれている。

 

 

次に正覚山/大音寺に行く。大音寺は1614年(慶長19年)伝誉が開創。本博多町にあったミゼルコルディア本部教会の跡地に創建されたが、1641年(寛永18年)に現在地に移転されて現在に至る。晧台寺、本蓮寺と並んで長崎三大寺の一つである。境内の一角に碑文を載せた大きな亀の石像がある。この碑文には伝誉の功績などが書かれてあるといわれていて、この碑文を全部解読すると亀が動き出すといわれている。

 

大音寺のお隣の横超山/発心寺へ行く。発心寺の梵鐘は中国で正統3年に造られたものである。中国暦正統3年は、日本では足利時代の1438年(永亨10年)に当たる。長崎で最古の梵鐘といわれている。日本の梵鐘のように下が平でなく波形になっていることと鐘の付け根は龍の子が立ち上がって玉を支えている形が特徴である。

発心寺で歴史文化探訪は終了。そのまま新地中華街を通ってバス停まで歩く。新地中華街は修学旅行生を含め賑わいが戻ってきたようだ。このままコロナが終息してくれればと思う。今日の歴史文化探訪もいろんなことを学んだ。歴史探訪はたくさん学ぶやり方と一つをじっくり掘り下げるやり方を並行しなければと思いながら帰途に着く。